棄てゆくものを
( 三成は、自分を赦さないだろう。
家康は覇王を討ち果たすと決意して以来、その確たる未来を幾度も胸の内で繰り返していた。三成は、決してワシを赦さない。赦さない。赦さない。三成の総てを覆い尽くすであろう狂気までもを想像して、唇を噛みしめながら思う。それを思うたびに、知らぬ間に握りしめていた拳が震える。
それでも、あの男に天下を統べさせるわけにはいかない。その先に待っているのは更なる戦火の拡大と、それを泰平と呼ぶ歪んだ世界だ。そうと断じながらも幾度となく、家康は自らへ問い掛けた。
為せるのか。背負えるのか。
過ごした日々で確かに惜しんだものを手放せるのか。
紡いだ絆を唯ひとつ、徹底的に打ち毀してなお、前を見据えて進めるのか。
――問い掛けておきながら、その末に救える無辜の民を、目指した泰平の実現を思えば、答えなどひとつしかありはしないのだ。
為さねばならない。負わねばならない。足がもげようが引き千切られようが、手で這ってでも進まなければ。
そうしなければ、家康が傷を負い、膝を折ってでも必死で握りしめてきた願いは潰えてしまう。
泰平が欲しい。安寧が欲しい。民が兵として徴収され戦へ赴かずにすむ世が、戦に焼かれ住処を奪われ餓えなくてすむ世が、幼い子が母から噴き出す血飛沫など浴びなくてすむ世が、望んだ相手と他愛なく笑える日々が欲しいのだ。
己しかいない。傲慢な思い込みだと嘲笑いたければ、笑うがいい。
「それでもワシ以外にはいないのだ」
自らへ宣言したその時に、拳の震えが止まった。
だから家康は、己へ向けられる狂気も憎悪もとうに覚悟していた。
雑賀の地へ契約を求めて向かった時、家康はひとつの可能性を考えていた。今は大阪城に拠点を構える石田軍もまた、軍の増強を目指すはず。戦国の世にその名を誇る雑賀衆を見過ごすとは思えなかった。場合によっては奪い合いになるやもしれぬと心構えすらしながら、家康は雑賀を目指したのだ。
まさか自分が契約を果たしたその瞬間に、邂逅を果たすとは思わなかったが。
契約を終えた雑賀孫市に三成のことを尋ねようとしたまさにその時、かつて傍にあった――けれど決して自分に向けられはしなかった殺気を感じ取った家康は、振り向きざまに腕を構えた。その拳の背へ、凄まじい勢いで刃が振り下ろされる。
耳をつんざく鋭い音と衝撃と共に、ぎょろりと眼を剥いた男の憎しみに満ち満ちた呼び声が放たれた。
「――家康……ッ!」
覚悟はしていた。
だが刃越しに見る、それすらも敵わない程の、その眼は。
「三、成ッ………」
ひゅう、と喉が鳴った。
お前、―――お前、何て顔をしているんだ。
ついこの間のようにも思える遠い日々に、隣に在ったはずの男は凄まじい変貌を遂げていた。姿かたちではない。やや頬が痩けたものの見目の良さは変わらないというのに、小刻みに痙攣する口の端、憎悪と殺意に濁り血走った眼、異様に浮きだした血管が、その顔に奇怪な影を落として途方もない歪みを作り上げていた。それはまさしく血肉を持った幽鬼に等しい有様で、全身を血潮の代わりに巡り渦巻く怨念が、今にも噴き出して家康の上へ降り注ごうと蠢いている。眼に見えぬはずのそれが手に取るようにわかる程の、変わり果てた形相が家康に思い知らせた。
ああ。
お前は、ワシを。
家康の背後から孫市が躊躇なく銃を撃つ。それを瞬時に弾いた三成は、警戒を込めて距離を取った――― )