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あるいは 標本箱として

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 朝一番に、事務所の入り口のドアが開かれる度、部屋の空気の流れは変化する。
 キンと冷えた空気を身にまとったその人が、適度な暖かさを持ったこの場所へ足を踏み出すと、凍り付いた全てが緩やかに溶け出す。ブーツを脱ぐためにおろされるジッパーの音は同じく室内をきりさく。そういったかすかな音を、雇い主である折原臨也は耳を澄まして聞いている。そのときは自身がタイピングをするのもやめて、足音や衣擦れの音を聞くことに集中している。そうやって些細な音にさえ聞き耳を立てるのは、まだ目の前に現れぬその人に思いを馳せているかのようだと彼は思っては自嘲した。
 タイムカードの機械が音をたてて時刻を刻印したようだ。彼女のタイムカードはいつだって代わり映えがしない。余りに完璧でつまらないものだから、彼は彼女の名と秘書という役職名を実に適当に書いてやることにしてやっている。少しは面白味がなくては、という彼なりの配慮に彼女がどう思っているかは知らない。
 音が響いた後の数秒、足音がひとつまたひとつと響く。外気に包まれた彼女と、もともとのそれがスリッパによって立てられる音が近づく度に混ざりあっていく。いくつかその音を聞いて後、顔を上げると、ようやくその人が姿を彼の目の前に表す。
 黒のアンゴラのコートによる完全武装、襟元にはティペットが飾られている。それらは流された黒髪と彼女の整った相貌と調和していた。臨也は彼女のその様を気に入っていた。まるでなにも寄せ付けないようなその、しかし簡単に揺らぎさえするその――。
 いつもみたく、彼女を観察するよう視線を投げる。そこで、ふと彼はあることに気づく。コートで武装した彼女は着込んでおり分厚く多い尽くされているはずだ、だというのに、その異常な細さは何であろう。まるで、均整のとれた人形、あるいはコートを着込みトルソーが歩いているかのようではないか。
 臨也はそこでおもむろに立ち上がると、滑るような動作で秘書に近づいた。そして流れるようにそのコートを脱ごうとしている彼女を後ろから抱きしめてみた。
「ちょっと、コートが脱げないわ」
 波江は後ろを振りむくこともなく、淡々と抗議を口にした。そこには動揺の一つもなく、まるで日常茶飯事の出来事を事務的に処理するといったものしか含まれてなかった。
 だが、彼はまるでその言葉が聞こえなかったかのように、腕をとく気配はなかった。そうして抱き止めたまま今度は顔を彼女の首筋あたりに埋めた。
「冷たい」
 鼻先にあたったファーに対してそう思ったのか、それとも抱きとめた腕から感じたのか定かではないが、彼は独り言のようにそうつぶやいた。
 上司が独り言だか話をふっているのだかよくわからないような言葉をこぼすのになれてしまっている彼女は、それに相槌を打ってやる。
「外は寒いのよ」
「あぁそうみたいだ」
 臨也はそういうと、腕の力を若干強めた。腕の中に更に彼女を閉じこめてみれば、先ほど見たとき以上にその体の細さに気付く。想像以上に腕が回るではないか。
「ねぇ、波江さん。君さ、ちゃんと食べてる?」
「えぇ」
「それにしたって細いよ」
「あなたにいわれたくないわ」
 彼女は唐突に話題をふられたせいか、それとも話の脈絡のなさになのか解ったものではないが、あきれるように答えを返した。やはり振り返ることなく誰もいやしない目の前に言葉を投げる。
 先ほどから顔を埋めたままの臨也がしゃべる度に、波江の耳元にはわずかに吐息がかかった。それは熱を持ち、彼女をくすぐっていた。
「霜の香りがするよ」
「違うわ」
「じゃあ獣の匂いだ」
「えぇそうね、毛皮の匂いでしょうね」
 埋められた顔があがる様子もなく、男は同じく言葉をはき続けた。いつも以上に謎めいたそれを彼女はしばらく黙って聞いていた。適当な相槌を打ちながら、ただ前を見つめたまま、背にかかる重みであったり温度であったりに目をつぶった。
 そうして幾分かして、彼女は長めのため息を一つ。
「もう良いかしら?」
 それは合図だと二人とも知っている。
 波江はそこで初めて首を回して後ろに視線をやった。それが、ちょうど臨也が顔を埋めている方と同じだったので、その間際で視線がぶつかった。ごく近い距離でまるでお互いが駆け引きで見つめあっているかのようにも思えたが、やはりいつも通り、そこにはそんな色は一切なかった。冷徹な秘書の視線と人への愛を謳う雇い主の視線がぶつかるだけである。
 数秒の対峙の後、彼はそこでようやく顔を上げて腕をゆるめると、そのまま両手をあげて降参とばかりに後ろに3歩さがった。
 波江は向こうが離れてさえもそのままじっと臨也を見つめていたが、無言のままコートのベルトに手をかけた。そして、そのままコートをするりと脱ぎ捨てた。臨也も黙ったまま彼女がそうするのをただ見つめていた。
 脱ぎ捨てられたコートは未だ床の上くたりとなっていた。いつもだった脱ぎ捨てること等けしてなく、丁寧にそれを脱ぎやってハンガーに掛けるというのに。今まで一度だってこんなことをした試しがないものだから、彼はなんだか焦燥めいたものをうちに感じざるを得ない。それが、自然と言葉になった。
「まるで、脱皮したみたいだ」
 するりと脱ぎ捨てられたそれは、余計なものをすべてそちらにやってしまったかのようだった。そして、コートを脱いだ波江は、やはり細かった。今まで何度となく観察したその時と同じ体躯であるはずだろうに、なんだかいつも以上に細く美しく見えた。それが彼に一層、そうであると思わせる。
「ねぇ、君は蝶なのかな。ようやく成虫になれた美しいそれさ。だとしたら、どこかに行っちまうんじゃないか」
 波江はやけに真剣につぶやく臨也にたいして、不審な視線をやる。そして、当たり前だと言いたげに言葉を続けた。
「だとしたら、何かしら。私がどこへ行こうとあなたには関係ないでしょう。そしてどうなろうと関係ない、そうでしょう」
「あぁそうだ」
 珍しく真摯な面差しの彼はこの話題をやめる気はないらしい。唇はいまだ続きを口にしようと震えている。全く持って意味の分からない奴だと彼女は改めて思い直しながら、男から視線を逸らしてため息を一つ。
 波江は、はやく仕事にとりかかってしまいたかったので、これから解放されるために仕方なく一般論の1つを口にすることにした。
「逃げられたくないのならば、ピンで差し止めておくことね」
 それはとても投げやりな言葉であった。あくまでも比喩の話であったしそれに彼女自身が”蝶”であると思っているわけでもない。だけれど、その話題自体どうでもいいとおもっていた波江は何でもいいから答えを口にしておくのが得策だと思ったのだ。そうすれば、このくだらないやり取りも終わると思ったから。
 だから「もっとも、それは私には当てはまらないでしょうけど」と続けるつもりだった。しかしそれをいうよりも先に、3歩先の男が動いていた。
「じゃあ、そうしなくちゃ」
 その声は、彼女のすぐ耳元で聞こえた。
 彼女が状況に瞬きして目の前を確かめると、先ほどと同じ男の姿が、すぐ目の前にあった。絡みついた腕も同じく。違うのは、重みだとか体温だとかそういったものが背ではなくて正面にあるくらいだ。
作品名:あるいは 標本箱として 作家名:いとり