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医者パラレル

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院内の喫煙所はかなり奥まったところにあった。それこそ、喫煙目当てでない限り誰も立ち入って来ないような位置にあり、朝だというのに薄暗かった。
 そこで、整形外科医の平和島静雄は一服ついていた。医者は常にストレスと体力との勝負だった。喫煙者にとって世知辛い世の中になったもので、この病院も近いうちに禁煙を徹底すると聞いた。こうして煙草を吸えるのもあとどれくらいか。独立しようかなんて思うが、最初の設備投資費が馬鹿にならない。またここで親しくなった患者たちと別れるのも惜しい。
 静雄は肩を回した。すると固まっていたようでぱきりと音が鳴った。ついでに首も回し、背筋を伸ばした。
 すると目の端に影が入った。見れば、ガラス戸の先で手を振っている同僚がいた。

「やぁ、シズちゃん」

精神科医の折原臨也だった。身なりに気を配る彼だが、今日は夜勤明けなのか、その表情は声の割に暗かった。目の下にはクマがうっすらと浮き、疲れの色がはっきりと見えた。
静雄は紫煙を吐き出して言った。

「医者の不養生になる前に帰れノミ蟲」
「あとで仮眠をとるよ」

入ってくる気はないようで、臨也はガラス戸の前に立ったまま喋った。少し音が曇り聞き取りにくかった。
そして臨也はそのままガラス戸を背に床に座った。

「懐かしいね、ノミ蟲なんてさ」
「てめぇこそまだそれを呼ぶか」

静雄は臨也の背を睨んだ。

「こっち来てもう五年か。意外と短かったね」
「ここで会うとは思ってもみなかったがな」
「それ同感」

臨也はからからと笑った。

 静雄が臨也とこの病院で再会したのは、今から五年前の話であった。



   *   *   *



 新しい精神科の先生が来る。
 そんな噂が院内を流れた。噂には尾鰭がつくもので、静雄の耳に入ったときには、本当に医者かと思う状態にまでなっていた。
 ある日、静雄が休憩がてら院内を歩いていた時、大きめのトランク一つと、脇にノートパソコンを抱えた男が入ってきた。そして何のためかサングラスをかけていた。院内中の外来の好奇の視線を集めていた。

――― どこのセレブ気取りだ。

明らかに診察目的ではなさそうだった。あぁ、こいつが今度の噂の精神科医か。そんなことを思いながら静雄はその背を見送った。なんとなくその背格好に見覚えがあったが、誰とまでは行きつかなかった。
 彼はそのまま真っ直ぐカウンターに向かい、受付の医療事務員に言った。

「岸谷医院長はいる?繋いでほしいんだけど」

思わず静雄は足を止めて振り返った。その声は聞き紛うことがない。

「精神科の折原臨也って伝えてくれればいいよ」

そう言いながら男はサングラスを取ってワイシャツの胸ポケットにしまった。静雄の記憶より幾分か大人びた顔がそこにあった。
 診察時間中だというのに、彼の顔を見た看護師たちは立ち止まり、ひそひそとささやき合った。そして好奇の視線はやがて興味の視線に変化した。
 声をかけるのが躊躇われたのでそのまま診察室に戻ろうとしたが、逆に呼び止められてしまった。

「あれ、シズちゃん?」

悪くも懐かしい呼び名で。静雄はゆっくりと振り返った。そして速足に臨也の方へ歩いた。

「やっぱり。金髪の医者なんて君ぐらいだろうと思っていたら本当だったみたいだね。いやぁ、何年ぶりだろう。大学違ったから……九年ぶりぐっ!」

久しぶりに会ったことで興奮しているのか早口でしゃべる臨也の額を、静雄は容赦して弾いた。太めのゴムバンドを当てたかのような音が鳴り響いた。

「それを言うな」

 臨也は仰け反った首を元に戻し、額と首を押さえてふらりとよろめいた。

「バカ力も相変わらずか……ってて」

額も痛いが、勢いを殺せなかった首も痛んだ。

「折原さん、岸谷医院長からご連絡です」
「はい」

臨也は首をさすりながら、静雄を見た。

「じゃ、またあとで」

そしてトランクを持ちノートパソコンを抱え、先を行く事務員の後を追っていった。


 臨也は瞬く間に馴染んでいった。高校の時よりますます社交性に磨きがかかったのではいかと静雄は思った。

「そりゃあ、精神科は言葉が命だから」

そう臨也は言った。信頼ではない。静雄は寒さを感じた。
 また偶然か必然か、外科医の新羅、内科医の門田を含め、高校時代の面子が揃った。とはいっても毎日会うわけでもない。廊下ですれ違った時に立ち話をするくらいで基本会う事はめったにない。特に外科と内科は忙しい。新羅に至ってはいつもどこかに出張に行ってしまっている父親の代理で院長も兼ねているときがある。



*   *   *



「まぁ、付き合いは……八年か」
「高校含めんのかよ」

まさか高校までが含まれるとは思ってもいなかった。何せ毎日が戦争のような喧嘩続きであったのだから。
 それが十四年でここまで穏やかになったのは多少なりとも距離を測れるようになったからなのかも知れない。臨也も人を挑発するようなことをしなくなったし、静雄も怒りの消化方法を学んだ。もっともこの職に就いたというものも大きかったのかもしれない。

 ふと、静雄は今まで聞いていなかったことを思い出した。

「そういや、最初の赴任先ってどこだったんだよ」

自分の年齢から五年を引いても、三年のブランクがあった。その間臨也はどこに勤務していたのか、気になった。
だが返事はなかった。不審に思い煙草を消してガラス戸を引くと、壁に背を預けていた臨也はそのまま倒れてきた。

「臨也?」
「………」

無言で、目を閉じて、規則正しい呼吸を繰り返していた。

「……おい、寝るな」

傍にしゃがみ頬を軽くはたくが反応はない。頬を抓ってもまた然り。思わずその頬の伸びた顔に静雄の方が笑ってしまった。それでも起きないほど、臨也は寝入ってしまっていた。
 このまま放っておくには外は少々寒かった。白衣を脱いでその上に被せると、仕方なく、静雄は臨也を抱え上げた。

 いくら開院前とはいえ、職員は往来している。静雄はその中を、なるべく人目を忍んで案内板に従って精神科に向かった。途中すれ違った精神科医に「急患ですか?」と慌てた様子で聞かれたときは焦った。「いや、夜勤明けで寝ちまった」と答えると、彼は臨也の顔を見て納得したように頷いた。

「最近寝つきの悪い方がいらっしゃったみたいで、その相手をしていたようですよ」

しかも指名ときたらしい。それは睡眠不足にもなる。ただでさえ大変な職場なのだから。

 朝早くから精神科に掛かりに来る人は少ない。おかげでほとんど人に会うことなく臨也の部屋まで辿り着いた。足を使って引き戸を開け、中に入るなり静雄は臨也を仮眠用のベッドの上に寝かせた。肩を軽く回し、そしてかけていた自分の白衣を取ろうとしたところ、引っ張られた。

「…おい臨也君よ、離せ」

何度か引っ張るが、力は緩まるどころか逆に強くなった。力任せに引っ張ることもできたが、その引く強さのせいで臨也自身がベッドから落ちるのも明らかだった。頭でも強打されては困る。自分じゃなくて病院が。営業に支障が出る。そう自分に言うと、仕方なく、白衣はスペアを使うことに決めた。

「洗濯してアイロン掛けて返せよ」
作品名:医者パラレル 作家名:獅子エリ