掌中に在りて 春は麗し
人の骨の砕ける音を知っているか。
家康は頭の中で数を数えている。百一、百二、百三。無心に数えている。家康は、これまでに拳を振るった回数を忘れたことはない。忘れたくとも忘れられない、武器を捨てた時から家康の脳はそういう風に自分を作った。周囲に他の兵はいない。互いの力の強大さを知る家康は、自分以外の兵の巻き添えを恐れて遠ざけている。眼の前にいるのはただ一人の男、口の端からどろりと濁った血を流し、潰れた片眼で今なお爛々と自分を刺し貫く瀕死の男だけだ。百十二、百十三。刑部、刑部。どこにいるんだ。百二十、百二十一。退かせろ。退くんだ。手当てをしてくれ。百三十三。拳を放った先の胴はすでに武具も砕かれ、膚の下は骨すら砕けて柔らかく、突き出した拳は奇妙な程深くまでずぶりとめり込んだ。百三十四。刑部、と家康は己がころした男の名を呼ぶ、声に出さずに叫ぶ。
三成を、助けてくれ、
家康は咆哮をあげて、拳を振り上げる。
気付けば銀髪を朱に染めた男が、眼の前に倒れていた。四肢を投げ出し、ひゅうひゅうとかすかな息を漏らしながら、命が流れ出しているのがありありとわかるその姿を、家康は夢から引き剥がされたような心地で見つめた。その先で、散々に砕かれた籠手から傷だらけの膚が曝け出された、もはや刀を握ることも出来ない男の腕が、不意にぶるぶると震えながら宙に浮く。
……よ…しさ、ま。……ん、べ……ま……
息をしていること自体が男の内臓を苛み、声をあげた途端にごふりと濁った咳が出る。
家康は、倒れた三成と同じほどに荒い息をつきながら、引き寄せられるようにその傍へ駆け寄って膝をついた。
ただひとりこの男に対してだけは、どこまでも身勝手にしかなれなかった。
震えるままに伸ばされた手が、得るものもなく宙を掻くのを見て――思わずその手を取ったのだ。自分が骨まで砕いた掌を。
触れる程度に握ったそれに、わずかに残った意識が刺激されたか、三成が一つだけ残った眼を家康へと向けた。定まらない視点でそれでも家康を認識しようとする瞳の動きに、自分の行動を呪う。あのまま、秀吉と半兵衛を見つめたまま、逝かせてやればよかった!最後に憎悪を与えてしまうのかと凍りつきながら、それでも家康は手を離せず、視線を逸らすこともできない。
そうして身を竦めた家康の視線の先で、急速に光を失っていく眼にようやく家康を映した三成は、
……家康
最後の吐息で柔く名を呼んだ。
家康は茫然として、もはや魂の飛び去ったもの言わぬ骸を見下ろす。
あ。あ……ぅ、あ。知らぬうちに声が漏れる。
遠ざけていた兵達が、長き戦の終焉を知り、歓声をあげて向かってくるのがわかった。自分の手で自分の口を押さえながら、ぐふ、と嘔吐く。叫びたくとも喚きたくとも堪えなければならなかった、兵が近づいている。家康様!呼び声が聞こえる。来ないでくれ、一人にしてくれ、叫び出してしまいそうな口を必死で押さえる。
なぜだ、なぜだ、どうして最後にあんな、
まるでかつて隣にあった時のような声で。
最後の吐息は呪いとなり、家康を侵した。
* * * * * * * *
以来、家康は三成の姿を傍に置いて生きている。何故なのかはわからない。亡霊かとも思うのだが、実のところ自分が勝手に見ている幻だろうとも思う。そのわりに会話をこなせるあたりが解せないが、自分が望めばそれに合わせて姿かたちも反応すらも変えると悟り、ならばやはりワシの記憶が独り立ちした願望の現れだろうか、お前は一体何なのだろうな、などと笑ってみたりする。
そして自分の望むがままに三成を歪めてしまわないよう、慎重にその記憶を掘り起こしては、無駄なことをと当の三成に嗤われる。
家康はその男と過ごすことで奇妙に満たされる、身勝手さを未だに持ち合わせていた。
三成は天下人となり忙殺される自分を嘲笑い、時に哀れみ、時に憎み、時に慰撫し、時に興味がないと言い捨ててふらりと何処かで行ってしまったり、それを探して政務を放りだした家康に説教をしたりと行動に一貫性もない。生きていないのだから理もないのだろうと、そう思うことにしている。
そして三成が家康を謗るたびに、家康は息を吹き返した気分になるのだ。
春は麗し、世は泰平。
その中で顔を覆って家康は呻く。
「お前以外の誰もワシを責めない。誰もお前を追い詰めたワシの罪を裁かない」
「いまさらそれを罪と嘯くか」
「必要だった、そうだ絶対に為さねばならないことだった。だが皆が言うのだ、何という穏やかな世、泰平の何という素晴らしさ、これを阻もうとした凶王の何と非道で憎らしいことかと。知っているのに、お前がひたすら主君の仇を討つためにと走っていたことなど知っているんだ、なのに誰もが言う。血塗られた乱世を長引かせた、凶王の何とおぞましきことか……!」
激する家康を前に、三成は無言で佇んでいる。その髪を穏やかな春の風がさらって行く。ここにいるのか、いないのか。虚実のわからない男を前にした時だけ、天下人たる家康は乱れることが出来た。
「三成。三成。誰もが言うぞ、ワシはこの世に現れた、人の姿をした神にも等しきものなのだそうだ。尊き御身と崇められ敬われ、……まるでお前が見ていたあの男のよう」
覇王のことへ言及しても、三成は激昂しなかった。それが妙に淋しくて、家康は手を退けて三成へ眼を向ける。
陽の光の下で、憎悪もなく、嫌悪もなく、静かに佇む男のまぼろし。
穏やかな春の日、こんな綺麗な場所で、お前と向き合って、笑って、過ごせたならどんなに。
そうしたら今度こそ言えるだろうか。詮無いことを考えて、家康は笑う。
「ワシは神になりたいわけじゃない。ワシは人でありたい」
手を伸ばし、あの日に粉々に砕いたはずの掌をとる。そのまま引き寄せて、抱き込みながら家康は後ろ向きに倒れ込んだ。衝撃を殺し、器用に地面に寝転がった家康の上で、三成は突然のことに少し驚いたような顔をして自分を見下ろしている。その唇を、目蓋を閉じながら軽く啄ばんだ。柔らかな感触に微笑み、開いた視界に映るのは何もかもを青く染め上げるような遠い空。
三成はいない。
「お前をいとしんだ人でありたい」
そっと呟き、春の薫りに包まれながら、家康はそのまま目蓋を閉じた。
三成が起こすまで、今しばらく。
作品名:掌中に在りて 春は麗し 作家名:karo