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掌中に在りて 春は麗し

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 あまりに愕然とした家康の声に、三成は違和感を覚えたのか、訝しげな眼をして家康を見返した。家康は咄嗟に腕を伸ばして三成の腕を掴むと、そのまま無言で引いて歩いた。背後で文句を言う男の声にも耳を貸さず、無人の居室を見つけてそのまま引き摺りこむ。
 たん、と鋭い音をたてて戸を閉める。
 何だいきなり、と不審を問う三成を見返して、家康はしばし言葉を口に出来なかった。混乱していた。
「三成。……さっき、言ったのは。昔の話だと、いうのは……」
 自分が言った言葉を探すようにして視線を宙へ向けた三成は、ああ、と呟くとこともなげに言った。
「秀吉様にお逢いするまでの話。何の意味もないことだ」
 三成の眼には痛みも逃避もなく、ただ事実を口にしているだけという様子だった。それはそうだ、今のこの世にあってはありふれた話なのだ。それなのに家康は衝撃を受けて呻いた。
 初めて会った頃、あの華やかさと硬質さが入り混じった鮮やかな姿を思い出す。
 それなりの時間を過ごしてきても、家康は三成の出自を聞いたことはなかった。秀吉は貴賎なく実力がある者を取りたてるのが常であり、それを問うことに意味はないと思っていた。
 だが。
「……お前は、なんだか、……とてもきれいなところで生きてきたのだと思っていた……」
 そうでなければ何故こんなにも無垢に。
 ああけれど確かにこの男は確かな歪みを持ち、常に血の臭いを纏うことも厭わない。
 ならばどうして自分はそれでも、その姿を無垢だなどと、うつくしいと思うのか。
 内心で自問する家康に対し、三成は馬鹿らしいと言いたげに、哀れみすら交えた眼で家康を見つめて答えた。
「……そんな場所はない」
 馬鹿か、貴様。
 いつも通りの、悪意よりは心を許した響きの強い罵倒。
 もしかしたら家康がそうであれと願ったが故に勝手に聞いたのかもしれない。だが家康はその声に、それまでの淡々とした口調からは聞き取れなかった小さな小さな諦めを見つけた。
 全身を途方もない強さの感情が巡り、家康は、衝動に任せてその身体を抱き寄せた。
 細身だが鍛え上げられた堅い身体が、どれほどの鍛練の末に生まれたものか、あの頃から三成の変化を見てきた家康は知っている。自らにも他者にも厳しく、周囲の思惑など気にかけず、昂然として前を見据えるその姿。 
 お前にそんな過去など要らない、のに。
 綺麗な場所を与えたい、それは家康の勝手な願いだ。それが導く答えを知って、家康はさらに腕に力を込めた。
 三成は、暴れなかった。何となく、普段とは違う家康の様子とその原因が自分であることには勘付いているらしく、離せと口で言うだけに留める。
 家康は離す代わりに大きな掌で三成の後頭部を引き寄せ、薄い唇に自分のそれを押しつけた。歯がぶつかる硬い音がして、三成が一瞬呻いて眉を顰めたが、家康は構わずに繰り返した。一度、二度。三度めに家康は顔を離し、それでも何ら抵抗しない三成をやや窺うように見つめた。
 三成は嫌悪も侮蔑も浮かべてはいなかったが、鬱陶しげに言った。
「昔の話だと言ったはずだ。妙な便乗をするな」
「ちが、う!そうじゃない、……そうじゃ」
 言い募る途中で、家康は三成の眼を見た。ただ淡々として自分を見る、この状況にはあまりに不釣り合いな眼だ。こんなことは驚くにも値しないという、その眼に透ける過去を改めて見て、家康はそのまま何も口に出さずにただもう一度唇を落とした。同じなのかもしれない。無言になった家康の濡れた瞳を見上げた三成は、小さく溜息をついた。それだけだった。抗うことはなく、代わりに腕を伸ばすこともなく。唇を緩く噛むと、わずかに唇が開き歯が覗く。舌を差し込む、三成は逃げはしなかったが舌を絡ませて応えることもなかった。戦場で振るい、数多の傷でささくれ立ち爪の割れた不格好な指で首を擽り、胸元を撫ぜ、そのまま服の合わせ目に手を這わせても三成は逃げなかった。
 昔の話だと、今は意味もないと言いながら、なぜ三成はここにいるのだろう。
 靄がかかったような意識の隅で思いながら、家康はその答えを求めなかった。家康もまた、見つけたはずの答えを口にしてはいなかったし、きっと言うこともないのだと思った。いとしいと、口にすることは何か恐怖と隣合わせにあった。
 奈落を覗くような。
 家康が見るものは、三成が見るものとは違う、もうそれを知っていた。
 じわりと汗が滲み始めた身体を持て余す家康の前には、さらりと乾いた曝け出された白い膚がある。青さすら帯びた陶器のようなつめたい膚を辿りながら、触れるうちにそれが仄かに色を変えていくと知ると益々家康の内に熱が籠った。臍を舐め、ひくりと震える腹を指でなぞる。逃げないんだな。どこか心許ない声で念押しした家康に、わずかに眼元に朱を乗せた三成は挑発するように言った。逃げたいのか。言いながら家康の首を掴み、引き寄せた唇に噛みつくように口づけた。家康は、無意識のうちに強張っていた顔に初めて笑みを浮かべた。そうしてあとは互いに何も言葉にせず、争うように身体を重ねた。貫いた瞬間にだけ、三成はかすかに声を漏らした。
 それだけのことだ。

 二度目も、三度目も、同じだった。互いを見るたびに身の内に溜まっていく何かが、ふと溢れて零れおちるような時に、何を積み上げるでもなく、交わすわけでもなく、それでも充足だけは手にしながら、家康は三成を抱いた。
 ただ、三度目はこれが最後と知っていた。
 豊臣を導く軍師がいなくなった夜。
 喪失の恐怖に肩を震わせ、縋る男の手に手を絡めて応えながら、頭の中で木霊する声を聞いていた。それは奮い立つようにして叫ぶ。好機だ、と。それを事実と知りながら、今だけはまだ共に惜しませてくれと願った夜。
 それすらも今は途方もなく遠い。


*   *   *   *   *   *   *   *  


「……な。何も違わない、あの頃と一緒だ。三成……」
 家康は宥めるような声音で告げながら、摘まんだ小指を齧った。三成はやはり表情を変えずにそれを見つめる。
「そうだな。“あの頃”だ。決して、“この時”ではないな」
 言いながら、三成は身体を擦りよせるようにして家康の肩に手をかけ、その耳元へ唇を寄せて囁いた。
「“裏切り者め”」
 注ぎ込まれたのは濁った怨嗟の纏わりついた、昏い呪いの声だ。
 家康は、咄嗟に身を寄せた相手を引き剥がすようにして腕を突っぱねた。抵抗もなくそれに身を任せ、ちょうど腕一本分の距離を置いた場所で、三成は哀れむような冷めた眼を向けた。
「毎日毎日、懲りもせずに自分を刻みたがる。これが貴様の言う泰平か?」
「……耳が痛いな」
 家康は思わず突き飛ばしてしまった相手を引き寄せようとして、諦めた。微妙な距離を置いて立ち尽くす二人の上を緩りと漂う雲は淡く色づき、空は視界が青く染まるほど晴れたままで、鳥の囀りは耳に心地好い。その中でこの彩りに溢れた春を、恵まれた日々を誰よりも享受すべき男は静かに片手で顔を覆った。
「だがお前以外にいないじゃないか」

 
 *   *   *   *   *   *   *   *  
作品名:掌中に在りて 春は麗し 作家名:karo