白雨情景
「いや、ただの団扇でなくて、その物売りの扱っていたのが欲しかったんだよ。ちらりと見た時に……とにかく、見てご覧な」
一太郎は団扇を周囲の者達に見えるように掲げながら、屏風の中で背中向けている男の『絵』にちらりと視線を移した。
「……確かに、綺麗な絵図ではありますが。ほぉ、これは…見事な錦絵で……、という程の物でもないと思いますが?」
白沢が、周囲の心の声を代表する。背中越しに展開する会話に屏風のぞきは身を固くした。一太郎の持っている団扇が気になって仕方がないものの、ここで出て行ってしまっては意地が通らない。
一太郎の身を案じているのは、あたしだって同じだと言うのに。実際、いの一番に拭いてやろうとさえ思ったじゃないか。なのに、まるで心配してもいいのは自分だけだというように拭いてやることさえ許さないなんて……白沢め。それに若だんなだって、若だんなだ。あたしに乱暴した白沢を怒りもしないで団扇の話なんて始めてさ。傷心のまま引っ込んじまったあたしのことなど構いもせずに、ずぶとく残った奴等に暢気に団扇なんて見せたりして……あたしには声すらかけない、……なんて。
屏風のぞきは怒りの矛先を定めぬまま、気を散らすかのように愚痴を募らせた。と、白沢の声に応える一太郎の声が鼓膜を震わせる。
「よくご覧よ。この錦絵の役者、すこし屏風のぞきに似ていないかい? 男役者の絵ながら、艶っぽいし、美人だし。なにより雰囲気がさ、」
えっ! 自分に似ている団扇を求めて団扇売りを追いかけたって言うのかい?
屏風のぞきはざわめく心の内を払うように身じろぎした。間髪入れず仁吉が冷ややかに答える。
「はぁ。でも、そんなに屏風のぞきの顔が見たければ、引きずり出せばいいでしょうに」
「違うよ。大体、そんな無体を強いるなんてことできるはずないじゃないか。それに、身内によく似た物があったら買い求めたいと思うのが人情だろう? ……仁吉たちは、妖だから、感覚は掴めないかも知れないが……とにかくそんなものなんだよ、」
何処か作ったようなぶっきらぼうさで言い放つ声が収まったかと思うと、屏風のすぐ外、背中越しのような状態で一太郎の声が響いた。
「屏風のぞき、怒ってないで出ておいでな。皆は、どうもぴんと来ないようだから、本人に判じてもらいたいのさ。それにお土産に三春屋の菓子もたんと買って来たんだよ」
抗いがたい内容の台詞が、この世に存在しない香の芳しさと共に屏風のぞきを包む。
しかし、一度くらい誘われたくらいですぐ気を許すと思われては周囲に示しがつかない。
屏風のぞきは外に出るのを踏みとどまった。しかし、紙の中でゆっくりと顔だけを向ける。視界に一太郎の柔らかな微笑が広がっていた。
「ね? 皆で一緒に食べようよ」
もう一押しと言うように誘う一太郎の背後で、仁吉の厳しい声がぴしゃりと飛ぶ。
「坊っちゃんは、これから夕餉でしょう。そんな菓子など食べたら夕餉が入らなくなるじゃないですか? 家人を心配させてもいいんですか?」
完璧な理論武装に痛いところを突かれた一太郎がぐぅと唸った。しばし俯いて思案した後、『長崎屋の手代』に、『若だんな』が声を掛ける。
「それをいうなら、そろそろ店も仕舞い支度で忙しくなるんじゃないかい? 悪いけどちょっと見てきておくれでないか」
一太郎の言う事には、正しくもっともな時分だった。仁吉は耳を済ませるようにして母屋に意識を乗せる。
「……若だんな、くれぐれも、この者達と羽目を外さないでくださいね」
仁吉は、兄やの顔になって再び念を押すと離れから席を外した。
「……という訳だから、出て来て、」
全て承知している屏風のぞきに再び甘えたような声をかける。
「でも、打たれた手の痛みは忘れられませんよ、」
屏風のぞきは、一太郎の言葉を遮ると肩口までを出して仁吉に打たれて僅かに赤くなった手の甲を突き出した。
「あれ、そのことを怒っているのかい?」
一太郎は目を丸くして呟いた後、すぐさま小さく噴きだす。慌てて、美麗な役者の描かれた団扇で花魁の扇子のように覆うが屏風のぞきにはしっかりと認められた。一太郎の混ぜっ返しのようなやり過ごし方に、屏風のぞきは思わず燻っていた言葉を吐き出す。
「『そのこと』ですって? 大体、若だんなが白沢を怒ってくれないから悪いんじゃないですか!あたしはこんなに酷い目にあったというのに、」
「でも、……それは、仁吉だって屏風のぞきのことを想ってやったことだから……。そんなに怒らないでやっておくれよ」
「何処があたしのことを『想って』なんですよ!」
噛み付かんばかりの勢いに、今度は込み上げてくる笑いを隠そうともしないで一太郎は答えた。
「だって、お前は、紙で出来ているじゃないか? だから、濡れた私の身体を拭いたりしたら、何時雫が付くとも限らない。そりゃあ少しなら平気かもしれないけれど、紙の身で危ない事をさせたくなかったんだよ。お前に、解けていなくなられては、私も、そして、仁吉……いや、白沢も淋しくて仕方が無いからね」
柔らかな声に綴られたそれに屏風のぞきの言葉が詰まる。
「若だんなはともかく、白沢は、あたしのことを心配するなんて魂じゃありませんよ。大体、あたしにだけは乱暴者なんですから、」
咽喉を抉じ開けるようにして出た言葉こそ幼子の『乱暴』そのもので、身の内からも非難の声があがった。バツが悪い。屏風のぞきは、気を散らすようにちらりと一太郎の手元に視線をやると口を開いた。
「それに、若だんな! あたしは、もっと綺麗ですよ」
気恥ずかしさを隠すように憎まれ口叩くと屏風の奥へと引っ込む。一太郎は絵の中の美貌と、手にした団扇をまじまじと見比べて、
「あら、本当だ。確かに屏風のぞきの方が数段上等だね。仁吉もそれが分かっていたから、あんなに怒った風だったのかしらね」
と紡ぐと全てを見透かしたように微笑んだ。