白雨情景
普段の屏風のぞきだったら純粋に喜んだ言葉に違いない。しかし、間が悪かった。封した仁吉との確執の、もう一枚底に敷かれていた記憶の紐がぶちりと切れる。
一瞬全ての状況を忘れ、屏風のぞきが毒のある笑みを浮べた。
「ほぅ、こんなところに汚れがあるような姿でもですかい?」
ずいと近づいた美貌に心底驚いたように見開くと、一太郎はゆっくりと口を開く。
「『目の下に黒子なんて、なんて婀娜っぽいんだろう。傾城ノ美姫というのはこんなものなのかと思ったんだよ』……と、そう言ったのさ。流石、見る目が違うと感心したよ」
「……で、屏風のぞきさんは、若だんなを贔屓するようになったというわけなんですね、」
昔語りを終えた屏風のぞきの艶っぽい溜息を受けて、鈴彦姫は憮然と言い放った。
「なんだい、自分で聴いておいて、そんな言い方は無いだろう?」
「しかし本当は若だんなの小さい頃の話を……」
「小さい頃の話だったじゃないか」
にべも無く言われ鈴の精は口惜しさに唇を噛む。こんな『自慢話』のようなものではなく、もっと普通の話が聴きたかったのだ。鳴家たちも鈴彦姫と同感らしく、ぎゅわぎゅわと不平の言葉を洩らしている。
「ふん、なんだい。こちらが気を良く話してあげたというのに……」
口調とは対照的に悪戯っぽく微笑を浮べた屏風のぞきは、星の菓子を口許に運んだ。放り込もうとした瞬間、鈴彦姫の手が伸びる。付喪神の対の手に納まっていた残りの星は、あっさりと奪い取られた。
「何するんだい!」
「屏風のぞきさんには甘い思い出話があるんだから十分でしょう? この金平糖は、こちらで頂きます」
さらりと言い切って鈴彦姫は鳴家たちと分け合う。返すつもりは無いと全身に刺す視線から逃れるように屏風のぞきは首を庭へと廻らせた。
何時の間にか蔓を伸ばしていた夕顔が花弁をたたんでいるのが見える。
「……、」
視線を上方に向けると、空では大きく伸び上がった積乱雲が灰色の影を透かしていた。
「あれ、まぁ……」
「なんですか? また、自慢話でも思い出しになられたんで?」
屏風のぞきの呟きに棘を立てながら、それでも律儀に鈴彦姫が返す。
「いや、雨だよ、」
「えっ?」
派手な付喪神の言葉を号令としたのか大粒の雫が地に落ちた。
一気に雨粒で靄が立つ。庭木や瓦にぶつかる音が祭囃子のように離れに響いた。鳴家の一匹が屏風のぞきと鈴彦姫の間を盛んに行き来してみせる。
「どうしたんです?」
「だって、若だんなが、まだお帰りでない」
「そうだ、傘などお持ちでなかった」
「どうしよう、どうしよう」
「また、寝込まれてしまうよ、」
鳴家たちの言葉を受け、鈴彦姫が立ち上がった。
「そっ、そんな!大変なことに……捜してきます!」
「えっ? 誰をだい?」
悲鳴に近い鈴の乙女の宣言に、庭から走りこんできた影が応える。
「若だんな!」
包みを片手に背中を丸めた一太郎の姿を認め離れの中は一瞬にして安堵に包まれた。屏風のぞきが眉間に皺を刻んで離れの主に身を寄せる。手には乱れ篭に入っていた手拭いが握り締められていた。
「全く、何処まで行ってたんですよ?こんなに濡れて……、」
布を持つ手で一太郎の肩に触れようとした刹那、屏風のぞきの身体が大きくしなる。背後へと弾かれたと気がついたのは、驚きを張り付かせた一太郎の姿が小さくなったからだった。美貌の付喪神は、青年の背後に叫ぶ。
「いきなりなんてことするんだい、白沢!」
屏風のぞきに真実の名を呼ばれた長崎屋の手代は整った顔に感情の一切を浮かばせず、黙したまま一太郎の身体を拭きだした。
「大丈夫だよ。そんなに濡れていないよ。だって、戻ってくる寸前に、」
言い過ぎた、とばかりに舌の滑りをぴたりと押さえ込む一太郎に、兄やは小春日和のような微笑を浮かべて見せる。しかしその双眸は凛と冴えていた。
「外出されていたのは知っていましたが、あえて何も申しませんでした。三春屋に買い物に行かれたのでしょう? 栄吉さんの作ったものは如何物食いしか求めませんから。しかし雨に打たれたとあっては……話しは別です。こんなに夕立が降るような時刻まで一体、何処へ行っていたんです?」
如何物食いとは随分な言い様じゃないか、いつもなら嗜めるところではあるものの今回は分が悪い。一太郎は仁吉の心配を過ぎた怒りを宥める事に専念した。
「えっと……栄吉のところで買い物していたら物売りの声が聴こえて……それで追いかけたんだ。そしたら本当に商売する気があるのかっていうほど足の速い男で、」
一太郎の心中を覗き見ることが出来ない屏風のぞきは、身の内で百の悪口を並べながら踵を返す。自分には万年雪のような視線を浴びせる白沢の一太郎に対する猫可愛がり振りから逃れるように屏風の中へと戻った。背中越しにまるで美貌の付喪神の『災難』など無かったかのような二人の声が響く。
「えぇ、そうでしょうとも。私たちがこんなにも心配しているというのにもかかわらず、坊っちゃんは内緒で他出。しかも、それを留めるどころか留守番役を引き受ける、こころ優しい妖たちついていると。そして、彼らは我が物顔で、離れの中でお楽しみ……という訳なんですね」
「仁吉たちが心配してくれていることは分かっているよ。……だから、抜け出たのは本当に悪かったよ。でも、留守番役を引き受けてくれ、」
「その上、若だんなが持っていた菓子を勝手に食べる、部屋は散らかす、その上に、若だんなを雨に晒させる……」
「もっ、申し訳ありません!白沢さん」
涙声で謝罪の言葉を紡ぐ鈴彦姫に一太郎の困ったような柔らかな声が応えた。
「謝る事は無いよ、鈴彦姫。どうせ皆で食べようと思っていたのだし。私は元々そんなに入る性質ではないから」
「しかし、」
仁吉の厳しい声が何かを続けようとした時、鳴家たちのそれがいくつも覆う。
「ほら、やっぱり、」
「言った通りだよ」
「でも、最初に言ったのは、屏風のぞきだけどね、」
一太郎が雨にあたったのも本気で自分のせいだと感じている節がある鈴彦姫の落胆振りに、鳴家たちが庇うように合唱をはじめた。それらの声を受けて仁吉の瞳が細く輝く。
「やはり、アヤツめが……」
地を這うような声とともに屏風へと歩み寄る白沢に一太郎は腕を伸ばして止めに入った。
「仁吉!」
僅かに揉み合う二人の間で小さく乾いた音が響く。
ぱさかさ、……がさ。
「あっ、」
一太郎は慌てて腕を突き立てるようにして兄やから離れた。と、無理矢理作られた空間に薄い物が落ちる。素早くしゃがみこむと、一太郎は仁吉の足に引っ掛かったそれを拾い上げ、隠すように抱き締めた。
「若だんな、それは?」
「えぇと……、」
興味津々の態で次を待つ妖たちを振り切ることなどできよう筈も無く、一太郎は諦めたように溜息を吐く。掻き抱いていた腕を緩め、持ち替えた手でくるくると回すように玩びながら続けた。
「その、足の速い物売りというのは団扇売りでさ。三春屋の先を通ったのを見て、その時に……どうしても欲しいものが……」
「その『どうしても欲しい』というのがそれなんですか?若だんなが団扇が欲しいなんて知りませんでしたよ」
何処か呆れたように響く白沢の声に一太郎は必死に説明を試みる。