向いてない男 上
「おい、今、何を考えた?」
留三郎は差し出していた手を引く。
木札を渡しそびれた伊作は、きょとん、として問い返す。
「何、って何のことだ?」
「ごまかすな。お前のそういうところが、底が知れない、って言うんだ!」
「だから、何なんだ!?」
「お前、今、腹案を捨てただろう?」
ずばり、断じた留三郎に、伊作の表情がこわばる。その表情が何よりも雄弁に留三郎の言葉を肯定していた。
「そうそうごまかされてやると思うなよ。何故捨てた?」
「……そりゃあ、無理だと思ったからさ」
「何故?」
「勝ち目がないんだ」
「違うだろう」
留三郎は、かつてない強さで伊作を睨んでいる。
彼に言わせれば、今から言うことは、これまでも散々見逃してやってきていたことだった。それが伊作だから、と腹の中でため息を一つこぼして。
だが、仙蔵の挑戦を聞いて、留三郎も、もう見逃してはやらないと心に決めたのだ。
「お前が捨てたのは、俺が犠牲になる策だな」
「……」
「そらみろ。六年同級をなめるなよ」
留三郎が鼻を鳴らしても、伊作は一言も返さない。
「お前はいつもそうだ。味方の犠牲が出ない、敵の被害も最小限になるような策しか言い出さない。駄目なら、勝ちを投げて、ひたすら逃げる。だけど、腹の中は違う。仙蔵と同じか、もっとえげつないことも思いついてるはずだ。違うか?」
「……当然だろう。僕だって、忍たま六年生だ」
捨て鉢な声で応じる伊作だが、しかし、悪びれたところはない。
伊作は伊作で、そこには信念がある。
忍びに向かないと言われ、ヘタレと罵られ、後輩にさえ頼りないと言われても、それでも絶対に手放さなかった信念が。
己を睨みつける目に、同じ強さの視線で立ち向かう。
「だけど、そうまでする必然性を感じなかったから、捨てた。忍者だからって、味方を見捨てて、敵を殺すのが正しいわけじゃない!」
「じゃあ、必然性があるなら、やるんだな?」
「そうしなければ、生き残れないなら」
「じゃあ、今がまさにそうだろ。この実習を落としたら、お前は落第だ。十分崖っぷちだろう」
「でも、別に命がとられるわけじゃない」
「いや、死ぬ」
即座に断定した留三郎に、伊作は再び言葉を失った。
「この期に及んで、まだそんなこと言っている奴が、学園の外に出たら、すぐに死ぬ。今がどんな世の中か、お前だって分かってるだろ」
「……」
「いいか、伊作。俺の”命”はお前にやる。好きに使え。その代わり……」
言いながら、留三郎は伊作の左胸へ、己の右拳を押し当てた。
服の布越しに、普段より速い鼓動が伝わってくる。
「お前の”底”を見せろ」
伊作が唇をかみ締めたとき。
遥かに見える学園の一隅から、白い煙が細々と、晴れ渡った空へと昇り始めた。