千代には遠く
困惑と動揺が等分に混じり合った声音で問うものの、そこに接触の恐怖はない。オランダはそのことに何となく満足を覚えて、そのまま無言でくしゃりと掻き回した。何ですか何ですかと慌てながらも、やはり日本は怯えてはいなかった。
こうして近づきながら過ごしていけば、いいのだろう。そう思った。
その小さな箱庭が強引に外から穴をあけられて、誰にでも門戸を開くようになるのはあっという間だった。オランダは事前に情勢を伝え、散々に開国の準備を奨めてはいたのだが日本は嫌だ嫌だと耳を塞ぐばかりで、しまいには布団に巻き込まれるように潜って出てこないほどだった。
結局、何の心構えもないままにあの強引な若造に押し切られて、あの小さな場所は極端に不利な形で世界へ晒される羽目になったのだ。忠告したではないかと苦々しく思いながらも、200年を密接に過ごしてきた身としてはそうひと言で切って捨てることはできない。
ようやく新たに押し寄せた数種類の嵐が過ぎ去り、少しばかり余裕の出来た頃、オランダは改めて日本を訪ねた。
招かれたのは昔と同じ居室、けれどそこにはあの頃漂っていた緩やかな閉塞感はなく。
憔悴を滲ませながらも意外に気丈な顔を見せた日本は、変わらずにはにかんで笑った。
「開国、しちゃいましたよ」
年月が許した砕けた口調で、それだけ言った。オランダは仏頂面のまま苦く言う。
「だから、言ったろうが」
「ええ。まったくもってお世話をおかけしました」
「これからどうすんのや」
「そうですねえ、まずは英語を初め諸外国の事を一から学ばねばいけませんねえ…。何をするにもまず話が通じなくては駄目だとつくづく思いましたし。ならばあちらの価値感や判断基準も知らなければ……一体どなたに話を通せばどなたが動くのか……或いは止めるにはどこから……ああ、忙しそう。嫌ですねえ、こんな爺に無茶をさせますよ」
オランダは、その言葉を聞いて表情を変えないままに驚いた。
嫌だ嫌だと言いながら、それは随分と前向きな姿勢だったのだ。そういえばこの男は、実に勤勉だったと不意に思い出す。
「それでも貴方が下さっていた書のおかげで、通じる部分も多々あります。本当に、ありがとうございました」
そう言って、正式な形で礼をする日本の頭をいつかのように見下ろす。
だがそれは、手を伸ばせるような距離にはどうしても思えなかった。
小さな場所へ引き籠って満足していた、花を愛で柔らかく笑う、呑気なのに掴みどころのない底なし沼のような男。
「……アメリカさんが」
箱庭を叩きつぶした相手のことすら抵抗なく話題に乗せる。
「言ったんですよ。君はもっと世界を知るべきだ、色々な国があってその国ごとに素晴らしい文化があって、そういうものに出会いたいとは思わないのか、って」
若いですよねえ。
言いながら日本は笑うのだ。
「でもこうなったからにはまあ、やってみますか、と」
底なしの沼に新たに出会った何もかもを呑みこもうと貪欲に動く日本の眼は、いつかと変わらずに老獪な光を乗せている。
欧州でただひとつ許された身として寄り添っていた歳月を思い、オランダはふうと腹の底で何かを吐き出した。放っておけば口に出してしまいそうな、何か。
たかが200年ちゅうわけやざ、ね。
微笑む男はまるで初めて会った頃と変わりなく、童のような顔をしてオランダを見ていた。