すれ違いと勘違い
千歌音が姫子に対し初めて投げた拒絶の言葉。なんて弱々しいのだろう。――全て逆を言っているようにしか思えない。
側に来て、抱きしめて…と。
以前の姫子なら、千歌音の言葉をそのまま受け止めて部屋から出て行ってしまっていたかもしれない。
でも、今は違う。その言葉が千歌音の強がりだということがわかる。千歌音の声が僅かに震えているのがわかる。
理由はわからないが、きっと…いや、絶対に自分が原因なのだろう。
また一歩千歌音に近づく。
「こ、来ないで…!」
びくりと千歌音の肩が跳ねて先程より強く、それでいて余裕なさげに言葉を荒げた。それでも姫子は足を止めない。
そして千歌音のすぐ側までやってきて、その背中を強く抱きしめた。
「やだ!離して!」
千歌音が力いっぱい暴れるが、そんなものは関係ない。このまま離してしまったら、きっと千歌音はどこかへ逃げてしまう。
どれだけ否定されても、どれだけ罵倒されても、こんなに不安定な千歌音を安心させるまでは絶対にこの腕を離さない。
「や、やだっ!や……ん…っ!」
暴れてこちらを向いた千歌音の唇を塞ぐ。千歌音を前から抱きしめるような姿勢に変え、そのままベッドへと押し倒した。
千歌音はまだ抵抗を止めない。一体姫子の何が彼女をここまで不安にさせているのだろう。それを聞く為にはまず千歌音を落ち着かせなければならない。
「ぷは…っ!やめ……んんぅ…ッ!」
唇を離すと千歌音は呼吸をするために口を開く。その隙にに舌を忍ばせ、口付けを深くした。
それを続けていく内に力が抜けたのか、千歌音の抵抗が弱まっていく。そして完全に抵抗がなくなった頃に、姫子はそっと唇を離した。
とろん、とした目をしている千歌音を起き上がらせその目をじっと見つめる。その目尻が赤くなっているのを見て、本当に泣いていたのか、と姫子は胸に痛みを感じた。
「千歌音ちゃん、一体どうしたの?」
「…だって、姫子には幸せに生きてもらいたいから」
「私は十分幸せだけど…」
そう言うと千歌音は俯きながら首を横に振った。そして「姫子は優しいから」と呟く。
「姫子は他に好きな人がいるんでしょう?」
「……は?」
あまりに素っ頓狂な言葉に姫子は呆気にとられた。自分に、千歌音以外に好きな人がいるだなんて、そんな馬鹿げた事あるわけない。
「でも、私が、私があんな風に告白してしまったから…ッ、だから姫子は…私と……!」
「ちょ、ちょっ…」
「私、自分の事ばかり考えてた…。姫子が私の気持ちを受け入れてくれた事に浮かれて、姫子のほんとうが見えてなかった…。姫子の気持ちを考えてなかった…!」
「ちょっと待って千歌音ちゃん!」
どんどん進んで行く話しに着いて行けなくなった姫子が千歌音の口を手で塞ぐ。その行為に千歌音は疑問符を浮かべながら首を傾げた。
「えっと…なんで私が千歌音ちゃん以外に好きな人がいるって言えるの?」
「…お店の中で、抱き合っていたから…」
…つまりだ。千歌音はどうやら姫子とソウマが抱き合っているところを見てしまって、どんどん悪い方悪い方へと考えてしまい姫子が本当はソウマが好きという結論に至った、という事らしい。しかもそれにはとどまらず、更に悪い方へと思考を巡らせ「姫子が千歌音と付き合っているのは同情から」などというとんでもないとこまで至ってしまった。
姫子は小さく溜め息を吐いた。何故そんなに信じてくれないのだろう。
「あのね、千歌音ちゃん。あの人は私の古い友人なの。確かに誤解を招くような事をしちゃったのは謝るけど、私が好きなのは千歌音ちゃんだけだよ?」
「う、嘘…」
「嘘じゃないよ」
「嘘よ…。姫子は、私が可哀想だから……だから……っ」
千歌音はまるで自らに言い聞かせるように呟く。言いながらぽろぽろと涙を溢れさせた。
――あぁ、そうか。
信じていないわけじゃない。千歌音はなんでも姫子を優先させてしまって、自分の事は二の次にしてしまう。だからどんなに自分に辛い事があっても、姫子の気持ちを優先させる為に、自分にはそんな気はないんだと思い込ませているのだ。
だから、こんなに不安定になってしまう。
そんな千歌音を安心させたくて、側にいるのに。もう泣かせないと決めたのに。
「千歌音ちゃん」
泣いている千歌音の顔をそっと上に向けさせ、口付ける。
「私が、こんな風にしたいって思うの、千歌音ちゃんだけだよ。抱きしめたいって思うのも、触れたいって思うのも、守りたいって思うのも、千歌音ちゃんだけ」
「ひめ…こ……」
「ごめんね、不安にさせちゃったね。私は千歌音ちゃんを愛してる、千歌音ちゃんだけを愛してる。これが私のほんとう」
そう言って姫子は千歌音の頬に手を添え、親指で涙を拭う。千歌音の潤んだ瞳を見据える。まだ涙が残っているが、その瞳からは不安は消えていた。ところが、ふっと千歌音は目を伏せ体を小刻みに震わせ始めた。
姫子は千歌音の肩に手を置き、どうしたの、と心配そうに問い掛ける。すると千歌音はその手に持っていた財布を自分の顔の前に翳し、姫子との壁を作った。…恥ずかしいのだろうか。
「プレゼント…買いそびれちゃった……っ。お金、貯めたのに…」
「貯めた?」
「うん…」
姫子が首を傾げると千歌音は更に俯いてしまった。それでもまだ話してくれるらしく、ぼそぼそと囁くように口を開いた。
「アルバイトして、お金貰って…そのお金で、姫子にプレゼント買いたかったのに……っ」
「わ、私のために?」
こくこくと首を振る千歌音を見て、姫子は体の奥からなにか込み上げるものを感じた。愛しくて愛しくてたまらない。
財布を避けるように唇を寄せ、千歌音の額にちゅ、と軽くキスをする。千歌音は反射的にぎゅっと目を瞑った。そんな千歌音がまた可愛くて、姫子はその小さな体を抱きしめた。
突然の姫子の行動に千歌音は困惑しているけれど、姫子の心は満たされていた。
千歌音がもっとしっかり落ち着いたら、二人で外へ出よう。二人で手を繋ながら歩いて、千歌音の姫子へのプレゼントを選ぼう。クリスマスになったらプレゼント交換をして、太陽の色…赤いマフラーをした千歌音を見て微笑もう。
「姫子…」
「なぁに、千歌音ちゃん」
「…あの、……その…、……す、き…」
「…ありがとう、愛してるよ」