君しか、いらな い 。
そのオフィスビルは、並立する両隣の建築物の高さに埋もれてしまっており、谷間を作って酷くこじんまりとした印象を与えた。
それなりの賑わいを見せるこの界隈においては小さい部類に入ってしまう4階建てのビルは、太陽光を遮られて薄暗い。
「ここ、か…」
件のビルを見上げる青年は、手に持つ紙をグシャリと握り潰し、ポツリと呟く。
紙――青年が目的とする場所までの道筋が書かれた地図にある通り、3階の窓には濃紺で薄らと主張する2文字のアルファベットが浮かんでいる。
いざ踏み込むという段になり蹈鞴を踏んだ足をしっかりと地に着け、ひとつ深呼吸をすると、勇んで青年はビルの中に入って行った。
エレベータに乗り込み、目的の階を押す。
静かな振動音と共に特有の浮遊感と圧迫感が身を襲えば、青年は軽く目を瞑り眉間を解す。
思いの外入っていたらしい肩の力を抜こうとするが、ここに来る事になるまでの経緯が青年の緊張を和らげる事はない。否、緊張というよりは、緊迫感、危機感という所だろうか。
一般的な人よりも体が丈夫であると自負していた青年を以てしても、ここ数日の緊張状態から来るストレスや重圧は青年の身を苛んだ。本人に自覚が無いから余計である。
ハッ、と息を漏らせば、空いた思考にそっと忍び寄るように入り込む記憶が青年の精神バランスを狂わせようとする。
『にぃ…さ……ごっ、め―――…』
つい先日の出来事がセピア色をして青年を襲い、思わず頭を抱えそうになるのを歯を食い縛って耐える。
もう少しだ、もう少しできっと助けてやれる。縋るように想いと手を向ける先に繋がるフロアへの扉が、ポーンと軽い音を立てて開いた。
何の変哲も無い扉は、異様な雰囲気で以て青年を圧倒する。
どこにでもあるような普通のドアである。ノックして押し開けば鍵でも掛けてない限り開く筈だ。
だのにそれを躊躇うのは、この先にある不安故か。
覚悟は決めた筈だろうと、手を握り締める。爪が喰い込みそうになり、ふと力を抜いた。
扉には"D・D"、と書かれた木製の表札が吊るされている。
漏れる明かりから、恐らく室内に誰かしら居るのであろうと当たりをつけ、覚悟を決めるようにゆるりと左右に顔を振ってから、青年は小さく扉を拳で叩いた。
まもなくして、擦りガラスの向こうに黒い人影が映る。はい、とくぐもった声と共に。
そして、閉じられていた扉がゆっくりと開かれて―――
「「あっ、」」
現れた顔に、双方ガチリと固まった。
質の良い革張りの黒いソファへと案内された青年は、座り心地抜群であるにも関わらず妙な緊張で身体を解せないでいた。
何がどうなっているのか、視線を設えられたガラス製のテーブルに向けていると、視界にコトリ、と中に液体の入った陶磁器が置かれた。
見るに、紅茶のようである。シュガーとフレッシュもきちんと添えられていた。
「お口に合うか、分かりませんが。」
おずおずと差し出した相手、この部屋の主は、そろそろと向かい側のソファへと腰を下ろした。
お互い、温かい内に紅茶に口を着け、そして、沈黙が落ちる。
切り出す糸口が見付からずに取り敢えず紅茶を、と思ったのだが、まさか相手も同じことを考えていたなどとは露とも思わず、変に気を張ってしまって余計に先に切り出すことが出来なくなっていた。
落着かない様子で忙しなく視線を動かしていた青年は、フイに相手へと視線を移し、丁度下方に向けていた視線を上に上げた相手と、バッチリ合ってしまった。これでは何か、言い出さねばならない。
あーっ、と、間延びした声を上げ、青年は咳払いをする。
「まさか、こんな所でアンタに会うとは思わなかったよ、竜ヶ峰。」
「・・・・・・そうです、ね。まさか、ですよ、本当。平和島さん。」
硬いながらも、少し崩れた苦笑で以て、彼等は互いに笑い掛けた。
「そもそも、お前はプログラマーなんじゃなかったのかよ。」
青年―平和島静雄―は、相手―竜ヶ峰帝人―に問い掛ける。帝人がこの部屋に居た事に驚いたのは、それを知っていたからである。
訊かれて当然だろうと、帝人は苦く笑った。
「えぇ、本職は、そうですよ。オリジナルのプログラムの開発で特許を取ったり、依頼でプログラムの修繕や追加等もやってますが・・・」
「じゃあ、ここは、どういう事なんだよ?」
「つまりですね、その本職を生かした、僕の副業なんです。」
優雅な所作で、帝人は紅茶を飲む。シュガーもミルクも含まれない、純粋なストレートティーは、綺麗な紅色をしていた。
それよりも、と、帝人はティーカップをソーサーへと戻しながら、真摯な中に少しの好奇心を混ぜた、歪に煌く瞳で静雄を射抜く。
「貴方がどうしてこちらへ?興味本位で来られた訳ではないのでしょう?刑事である貴方が、探偵事務所へ、一体何の御用です?」
ここ、“D・D”は、竜ヶ峰帝人が運営する、インターネット犯罪をメインとして調査する探偵事務所である。
元よりパソコン関係に詳しかった帝人は、自身の腕や経験を生かし、ネットで起こる犯罪の被害者を救済する事を目的として、この事務所を立ち上げた。
ネット犯罪は、利用も膨大ながら、知識が半端な人間もまた同様であり、知らず知らずの内に巻き込まれているケースが多い。
そうした、自身では解決し難い問題に直面した場合の相談窓口として、帝人の探偵事務所はある。
とは言え、大々的に宣伝している訳ではなく、知る人ぞ知る、という言葉がピタリと合う様に、偶々見付けたであるとか、または口コミで広がったケースである。
斯く言う静雄も後者のパターンだ。偶然、同僚がその手の犯罪のスペシャリストが居るのだと言っていた事が切っ掛けだ。
帝人の問い掛けに、口惜しげに静雄は唇を噛む。
雰囲気の変わった静雄の様子に、帝人は何らかの危急を要する用件なのだと感じ取り、背筋を正した。
同時に、嫌な予感も背を走り、聞きたい様な、聞きたくない様な、相反した感情に襲われる。
ゾワッ、と項の産毛が逆立つ心地がする。見えない手で首を擦られているような、酷く心許ない気持ちになる。
「―――・・・平和島、さ・・・」
「―――――――――・・・・・・弟、が。」
ポツリ、と静雄が零した音は、微かに音を立てる空調の吐き出す温い風の流れに乗って消えそうな程、ささやかだった。
掠れた、押し殺した声は、静雄の心情をそのまま模している。組まれた手に力が入った。
「弟の、様子が、おかしいんだ。だから・・・」
「えっ、あの、平和島、さん?」
「訳が分かんねぇ。どうしたら良いか、分かんなかった。でも、アイツがおかしくなったのは、あのサイトのせいなんだ。」
そうして、暴れ回る気持ちを抑えるように、一旦唇を引き結ぶと、静雄は緩々と唇から吐息を吐き出す。
全ての悪夢が、そこから漏れ出して今までのことはただの妄想だったのだとでも、言って欲しいかの様に。
頭の裏側、後頭部の辺りを、皮膚を通り越して脳味噌に直接叩かれた様な、警告音が鳴っている。
帝人は、気忙しそうに瞬きを繰り返し、自身の予想をどうにか追い出してしまおうと、口を開く。無駄な事だと、知りながら。
「えっと・・・ストレスとかじゃ、ないんですね?弟さんって、確か、芸能人の羽島幽平さん、なんでしょう?」
作品名:君しか、いらな い 。 作家名:Kake-rA