ある窃視者と詐欺師のはなし
そのとき、四方の壁が吹き飛んだ。病室の黄色いカーテンも、埃っぽいパーテーションも、染みの浮いた壁も、そして天井も遠くに消え去っていった。僕は慌てて飛田の手を強く握ったが、彼は微笑んだままだ。
ああ、これは彼の見せる幻覚だ。
僕は気付き、微かに戦慄した。重いほどのリアリティで迫るそれは、幻覚の一言で片付けられないほどに、僕の五感を圧倒的な力で支配した。病室が飛び去っていったあとには、見渡す限りの草原が、闇に滲むところまで続いた。夜風にそよぐ叢に、僕らのベッドと椅子だけがぽつんと取り残されている。濃紺の蒼穹に無数の星が明滅した。
僕はこれくらい、君が好きだよ。
飛田ははにかみながら、言った。僕は半ば呆然としながら、頷いた。知ってる。知ってるよ。手を取り合ったまま、僕らは天を仰ぐ。二人きりで草原のど真ん中、完璧な半球を描く天体の中にいる。
僕から飛田に伝えることができるのが言葉だけだということが、今ほどもどかしく感じられることはなくて、その手を強く握り直した。絡み合う熱い末端から流れ込む好意を僕は受け入れる。
強い風が頬を叩いたが、寒さは感じなかった。親指の先くらいの大きさで野生馬の群れが移動していくのが見えた。頻繁に星が流れた。光の糸を引きながら落ちていく。僕はベッドから足を下ろした。露に濡れる。
急に立ち上がったせいか、ぐらりと目眩がしてよろめいた僕を飛田が慌てて抱きとめた。僕はその背に腕を回す。僕が伝えることができるのは言葉と行為だけだった。
まるで、普通の人間みたいだ。非アリスの。
そう思ったらなんだか笑えてきて、僕は裸足にぶつかる草の心地よさを存分に感じながら、抱き締める腕に力をこめた。彼の眼鏡の弦が僕の頬に押し当てられていた。ありがとう、と耳元で囁く。こんなのはただの詐欺だけどね、と彼は笑った。
所詮は幻影だ。いつまでも続くものではないのだ、と思いながら、僕は美しい景色を忘れないように彼の肩越しに目に焼き付けようと努力した。多分、二度とは見られないその景色を。
どれくらいの時間が経ったのか、気付くと僕らは再び病室に戻っていた。
「面会時間は終わりですよ」
パーテーションから看護士が顔を覗かせた時には、僕らは既に互いの手を離していた。
窃視者の僕と詐欺師の彼の、恋のはなしだ。
作品名:ある窃視者と詐欺師のはなし 作家名:芝田