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ある窃視者と詐欺師のはなし

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6

 目を覚ますと、真っ白な空間にいた。ピッ、ピッ、と定期的な機械音から、病室であることに気付く。看護士が近付いて、目が覚めましたね、と誰かに声を掛けた。それが自分に向けられた声だということに暫く気付かなかった。言われるがままに血圧と体温を計って、再び睡魔に引き摺られた。
 二度目に目を覚ましたのは、食事を出された時だった。いわれてみれば腹が減っていた、と思って、がつがつと片付けた。お世辞にも美味しいとは言えなかったが、空腹だったので文句はなかった。何の機械だったのか知らないが、例の機械音は既にしなかった。外されたのだろう。
 すっかり目が覚めて、かといってすることもなく、強烈な幻覚の後遺症らしい頭痛に呻きながらベッドに沈んでいたら、看護士がパーテーションの隙間から顔を覗かせた。
「お見舞い来てるわよ」
 彼女の後ろから入ってきたのは飛田だった。にこ、と弱々しく微笑んだ彼に僕も同じように微笑んでみせようとしたが、頬は固く、上手く動かなかった。
 無理しないようにね、と言って出て行った看護士の背を見送って振り返った飛田は上半身を起こした僕の、布団の上に出ていた手を右手で軽く叩いた。
「まだ頭痛残ってるんじゃない?」
 僕は頷く。
「あれ、強烈だね」
「ごめんね」
「いや、こっちこそ、ごめん。しくじって」
 あれは、飛田が以前にも関わったことのある事件なの。尋ねた僕に彼は小首を傾げた。
「そうだよ、まさか僕の顔が出回ってるとは思わなかったけど」
「大丈夫なの」
「僕?まあ、大丈夫なんじゃないかな」
 僕は溜め息を吐いた。彼も一緒に小さく溜め息を吐く。
「何があったのか教えてあげたいんだけど、僕も一度ちょっと関わっただけで、なんだかとんでもなく深遠なスパイ事件だということしか。こういう事件に参加するのは珍しいから」
 実際スパイ事件なのかどうかも怪しいものだ、と僕は思ったが口にはしなかった。君が無事で良かったよ、という言葉は何故か出てこないまま、ただ僕は俯いて、重ねられた手を見つめていた。
 スパイ事件。
 読心能力者が一番良く投入される分野だった。
「僕の任務って、取り調べだとかスパイ事件だとかそんなのばっかりなんだ、実は」
 ふと出てしまった愚痴に彼は何も言わなかった。みっともない泣き言だと自覚しながらも僕はただ言い繕うように、言葉を重ねた。
「実際、いやな能力だよね、こんな窃視みたいな能力は。もっと、何か人を明るくすることもできる能力だったらよかったのに。飛田みたいな」
「何、言ってるの」
 飛田は少し吃驚するくらい大きな声を上げた。僕は顔を上げた。眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれていた。昨日の対象者の意識にあった顔はやはりただの主観で、僕の目の前の彼のそれはいつも通り、純真そのものだった。僕は見えない触手を伸ばすように、相手の意識に分け入った。怖いと分かっているのにその純真さの中に踏み込んでしまう。まるで深い草むらのようなそれ。そして行き当たる。
 君の能力が窃盗なら、僕の能力は詐欺だよ。
 彼の心の小さな呟きのような澱みに触れて、僕は思わず叫んだ。
「そんなこと、ない!」
 飛田は一瞬、驚いてビクリと震えたが、弱々しく微笑んで、親指を廻すように僕の手を撫でた。純粋な彼を汚したくない。ただそれだけを願っていた自分を愚かしいとは思うが、間違っていたとは思いたくなかった。
 こんなところにいたら、どんなに心の優しい人だって容赦なく傷付けられる。むしろ、心の優しい人ほど傷付けられるのだと、分かっていたはずなのに。彼が自分の能力を否定したいと思うほどに苦しむのは自明のはずだったのに。
「ごめん。心、読んじゃった」
「いいんだ」
 罪悪感で疼く僕に、飛田は優しく笑いかけた。そして暫く何かに躊躇うように俯いていたが、顔を上げて僕の顔を覗き込んだ。少し色素の薄い瞳がじっと僕を見つめる。目を外せなくて僕もじっと見つめ返した。
「僕のお母さんって僕の考えること、なんでも読んでてね、隠し事なんかできなかったんだ」
 それはいつのことだろう、と僕は思う。未だほんの子どもの頃の話に違いない。彼は優等生だったから、何度か帰宅を許されてはいたけれど、それでも、一週間程度のはずだった。僕はただ頷く。
「僕のことを本当に理解してくれてたんだと思う」
「うん」
「そういう存在が齎す安心感って何物にも代え難いと思うんだ」
「うん」
「だから、僕、常にまわりに僕のことを本当に理解してくれてる人がいるって、幸せなことだと思ってるよ。君がいてくれるだけで、僕は本当に安心できるんだ。たまに恥ずかしいけど」
 僕は只管に、うん、うん、と彼の言葉に頷き返した。飛田が本心でそう考えていることは、解っていた。だからそれだけに、やりきれない気持ちになる。
 僕らの、人間としての「逸脱」あるいは「過剰」に対して、歪んだ諷刺の世界に迷い込んだ少女の名前を冠した人間の残酷さを、僕は呪う。望んで得たものではない。むしろそれを失うことすら、僕は怖れたことがない。それを失って、一般的な人間の範疇に収まって、そのとき初めて僕は幸福を感じるのではないかと思う。
 しかし、この能力込みで、僕は僕であり、そして僕はそれを使わない人生を構築することをしてこなかったが故に、そうする能力すら失ったのだ。
 その不幸は、こんなものを持った者にしか分からない。
「ねえ、だから」
 飛田はゆっくりと僕の肩に頭を預けた。
「この気持ちを拒絶しないで」
 君が好き、と叫ぶ声にはならない声に僕は何も言わず触れる。刺々しく、しかし温かいこの気持ちに。僕は飛田の肩を抱いた。彼は何も言わずに僕に頭を預けた。僕も君が好きだよ。だから、君が傷付くのを見るのがすごく辛いよ。傷口を舐めるように、飛田の耳に囁いた。