愛する者の剣と盾
03.愛するがために
震える手で、携帯電話のボタンを押す。
結局、男の言う通りにするしかなかった。男が電話をすれば、赤林さんはきっと来てしまう。それだけは避けなければならない。
けれど、私は赤林さんと話して冷静でいられるのだろうか。
今だって、恐怖で体が震えてる。それなのに、赤林さんに助けを求めないでいられるのだろうか。赤林さんの声を聞いたら、後先考えずに縋ってしまいそうで怖かった。泣いてしまいそうで怖かった。自分の置かれている状況を知られてはいけないのにそうしてしまいそうな自分を思うと、死にたくなる。
『……誰だ』
2コールで赤林さんが電話に出る。その声は恐ろしく低く、不機嫌なものだ。不機嫌…を通り越して、怒っている気配すらする。そんな声を向けられたことは無かったから、つい口を噤んでしまう。
『まさかお前が、』
「赤林、さん。帝人です」
『………………みーちゃん?』
「……はい」
間を置いてからいつもの調子で呼ばれ、知らずに詰めていた息を吐き出す。ああ、赤林さんの声、だ。じんわりと、声が体中に染み込んでいくような気がした。涙がこぼれそうになる目を擦って、深呼吸して言葉を続ける。
『なんで非通知で?』
「えと、いま携帯が壊れちゃって、友達のを借りてるんです。…それを、伝えようと思って。携帯が直ったら、また連絡します」
『はいはい。お待ちしてますよ、みーちゃん』
「あと、その、赤林さん、何か…周りで変わったこととか、ありませんよね?」
『……なぜ?』
「う、え、何となく、ですかね。あのっ、ええと、ダラーズ、そうダラーズの掲示板に、なんかヤクザっぽい人たちがばたばたしてるってあって、粟楠で何かあったのかとっ!」
口から出まかせも甚だしい。
なぜ、と言った瞬間の赤林さんの声音が妙に強張っていたので、よもや地雷を踏んだかと思ったのだ。焦って適当な言い訳を並べてみたのだが、あまりにも咄嗟の言い訳なので返って怪しすぎる。自分で言っていてわけがわからなくなってきた。
正直、今の自分の頭のなかはぐちゃぐちゃなのだ。どうしようもない恐怖と、赤林さんの声を聞いたことによる安堵と、助けてほしいと叫び続ける心と、赤林さんに迷惑をかけたくないという想い。どうしたらいいのか分からなくて、今すぐ現状を打ち明けて相談したい。でも、できない。ぐるぐる考えていると、また涙が出そうになる。助けてと、言ってしまいそうになる。
「赤林さ、」
『……内々で隠しているつもりなのに、どこから漏れたんだかねぇ』
「え…?」
盛大な舌打ちと共に、赤林さんが苛立ち混じりの声をあげた。
『この際、恥も外聞もありゃしない。みーちゃん、何か知っていることがあるなら教えてくれ。お嬢が、何者かに攫われたんですっ!!』
ぴしゃり、と。
頭に冷水をかけられたかの如く、ぐちゃぐちゃになっていた思考回路が停止した。
そして緩やかに動き出す。静かに、いつもと同じ調子で。
「……茜ちゃんが?」
冷静になってみれば、電話の向こうは酷い喧騒にまみれていた。
この電話自体、犯人からかもしれないと思ってすぐに出たんだろう。だから最初、あれほどの怒気が篭った声で電話に出たのだ。
『今、粟楠の総力を挙げて捜索してる。情報屋と運び屋にも依頼を出している。だけど、まだ見つからないんです。犯人の目星もついてない』
取り乱していたのは最初の一声だけだった。
話すごとに赤林さんの声は、低く怒りを孕んだものに抑えられていった。そしてその感情を押し殺した声を聞くうちに、私の頭はどんどん温度を失っていく。
まるでもう一人の自分がいるように、今までの出来事が遠いものに思えた。私の思考は静かに答えを導く。いま、自分がどうするのが最も正しいことなのか。赤林さんのために、自分が何をできるのか。
「赤林さん、今から言う内容を覚えて下さい」
私が持っている、唯一の武器。今の私には使えないけれど、きっと赤林さんなら上手く使えるはず。
「 」
そして今後のことを思えば、この人に託すのが最善であるように感じたから。
『え?』
「今のIDとパスで、ダラーズの管理者権限が使用できます。今更なのかもしれませんが、私はダラーズの創始者なんです。…ご存知、でしたよね。赤林さんを助けてあげたいけど、今の私はそれを使える状況にありません。だから貴方に託します。後は自由にして下さって構いません。その代わり、必ず茜ちゃんを無傷で助けてあげて下さい。それが粟楠の赤鬼と呼ばれる貴方の責任です。私の武器を託すんですから、しっかり使って下さいよ!」
『みか、』
「赤林さん、」
赤林さんが珍しく、私の名前を呼ぼうとした。いつも茶化してばかりでちゃんと呼ぶことなんて数えるほどという、あの人が。
これが最後になるかもしれないと思うと、呼ばれたいう欲はあった。けれどもそれを聞いたが最後、恐らく私の決意は揺らいでしまう。冷静な私の奥で泣いている私が、出てきてしまう。そんなことはできない。私はこの人を困らせたくない。この人に後悔をさせたくない。だから絶対に、絶対に絶対に『助けて』なんて言えない。だって私は、私は――…、
「貴方を、愛してます」
「――っ!?」
「重荷になってしまうのを分かっていて伝える私のことを、どうか許して下さい」
言い切ると、私は終話ボタンを押す。そして携帯電話を叩き折って壊し、中から出てきたコードを犬歯で噛み切った。この携帯に何かを仕掛けてあるとは思えないが、万が一を考えたらこうするのが最善だ。
今まで明るかった画面が暗くなる。赤林さんとの繋がりが、完全に途絶えた。
「……大丈夫、もう怖くない」
体育座りになって祈るように手を組み、小さくそう呟く。
そう、怖くなんてない。伝えたいことは伝えた。やれることはやった。未練は何もない。私の行動は赤林さんの、粟楠のためになる。だからこの後に私がどうなろうと、構わない。
私は唯一の武器を無くしてしまったけど、盾ならまだ残っている。赤林さんへの想いが、私の心の盾になってくれる。あの人のためになることならなんだってできる。あの人のためなら、死ぬことだって怖くない。大丈夫、私は、平気。
――ぎぃ、と厚い鉄の扉が開いた。