モノグラム
どういう男の子がタイプだとか、どういうキスをしたいだとか、その手の話しには澪は絶対的に入れなかった。恥ずかしい、というのも少なからずありはするが、女子高生として普通の会話に自分だけが場違いな気がして、後ろめたかったのだ。
何せ、澪が好意を寄せている人物は絶対に澪を好きになることはないのだから。
「やっぱり定番の映画館だよぉ」
「わかってないなー唯は。ここは遊園地だろ!」
放課後の音楽室。軽音部のムードメーカーである唯と律は初デートの話題で盛り上がり、澪はそれを眺め、紬はいそいそとケーキやら紅茶やらを運んでいる。
どうやら初デートの場所について唯と律の意見は真っ向から二つに別れたらしく、二人の間にはバチバチと火花が散っていた。と言っても、その火花は「バチバチ」というより「パチパチ」という感じの可愛らしいものだが。
「ジェットコースターとか色々乗り回した後にゆっくたりとした観覧車に乗って、一番上まで来たときに…こう……ちゅっとさ!」
「りっちゃんそれベタすぎるよー」
「だまらっしゃい!」
私はロマンチストなんだ、と律が声を張り上げると唯が軽快に笑った。
その様子を、澪は一人だけ楽しくなさそうに乾いた笑い声を出していた。こういう話題が嫌な訳ではない。こういう話題に入ることができない自分に、嫌気が差すのだ。
唯と一緒に楽しそうに笑っている澪の想い人は、澪の気持ちに絶対に気付いたりなどしない。気付いたとしてもその気持ちに応えてくれるはずがない。それでも、律が自分以外と楽しそうにしているとどうしようもなく胸が痛くなる。
悪循環。気付いてほしいけれど気付いてほしくないという矛盾。
そのどれもが澪を後ろ向きな姿勢にさせる。
(約束、したのにな……)
遠い昔。夜空の下で律と澪はありふれた約束をした。
唯一違うのは約束を交わした二人が男女ではない、というくらいだろうか。それでも、二人は互いに互いのお嫁さんになろうね、と、約束したのだ。
そんな昔の事を今でも未練がましく覚えている自分に、また嫌気が差す。
「なぁなぁ、澪はどう思う?」
「知らないっ」
自分がそんな風になっているとも知らずそんな質問をしてくる律に腹が立ったのか、応えた声が澪自身が驚く程強くなってしまった。
案の定部屋に沈黙が訪れた。
「えっと…、澪ちゃん怒ってる?」
けれどそれも長くは続かず、沈黙は唯の言葉によって破られた。
「わかった!澪、お前羨ましいんだろー?」
「へ?…そうなの?」
「なっ、違…!」
「澪はこの手の話し苦手だもんな?恥ずかしがり屋さんだからなぁ?」
「り、律ー!」
ニヤニヤとしながらからかうようにそう言う律を、澪は顔を真っ赤にしながら小さい拳でぽかぽかと叩く。
そんな光景を微笑んで眺めている紬と、その隣で何かを考える仕草をしている唯。
そうして何かを思い付いたのか、唯はハッとした表情を浮かべ慌てて澪の元へと駆け寄り肩をがっしりと掴む。
「ごめんね、澪ちゃん!寂しかったんだね!」
「だ、だから!そんなんじゃ」
ない、という言葉は唯の唇によって澪の唇を出る事はできなかった。
まるでお姫様のような顔で瞼を閉じている唯と何が何だかわからずただ唯の表情を眺める事しかできない澪。そんな二人を見て固まる律と紬。
そっと唯が唇を離し、再び重ねる。我に返った澪が慌てて唯を引き離そうとするが、唯の熱い舌が澪の舌を掠め力が抜けてしまう。
精一杯の抵抗にと唯の服を引っ張るがそれでも唯は退いてはくれず、澪はぎゅっと目を瞑った。
漸く唇を離した唯を澪は潤んだ瞳で睨み付けるが全く効果はないらしく、にこにこと相も変わらず可愛らしい顔で笑っている。
けれど、可愛らしいからだとかそんな理由で今の口付けを受け入れられる筈などない。何せ、今のは澪の――…
「な、な、な、なにす――」
「――っにしてんだよ唯ッ!!」
震える唇で紡いだ言葉は律の強い言葉によって遮られた。その顔は今までにないくらい…澪ですら見たことが程に、怒りに満ちていた。
そんな言葉を浴びせられた唯は一瞬肩を跳ねさせるものの、またいつものふにゃりとした笑顔に戻る。
「え〜?澪ちゃんが寂しかったみたいだから、こうすれば寂しくないかなぁ〜って」
「ふざけんなよ!やっていい事と悪い事があるだろ!」
「り、りっちゃん…怒ってるの?」
「怒ってねぇよ!!」
怒ってない、とそんな怒鳴る様に言われてもなんの信憑性もない。どう見たって誰が見たって今の律は怒っている。
それを見て、今まで笑顔だった唯の顔に影が差す。それは澪を含めた軽音部全員が初めて見る表情、僅かに怒りを含んだ顔だった。
「そんなの、おかしいよ。なんでりっちゃんが怒るの?」
「な、何がおかしいんだよ!」
「おかしいよ!だってりっちゃん――」
「はいはい、そこまでっ!」
その口喧嘩を止めたのは今までずっと傍観していた紬だった。落ち着いて、と二人を宥める紬はどこかこの部の顧問と同じ雰囲気を感じさせる。
未だに睨み合っている二人の間に割って入り両者の怒りをなんとか鎮めようと笑みを浮かべている。
そうして紬が律の側に駆け寄り、律にしか聞こえない声でそっと囁いた。
「澪ちゃんがキスされて怒るのもわかるけど」
ちょっと落ち着きましょう。
と続いた紬の言葉は律には届かなかった。
先程紬が発した言葉は律にとって完全な盲点だったのだ。律自身、唯に指摘され何故自分は怒っているのだろうとさっきまで頭の中でで首を傾げていたのだから。
でも、紬の一言でわかってしまった。律が、どうしてこんなにも腹を立てているのか。
「なっ、なっ、なんじゃそりゃぁぁあああ!!!」
それを自覚してしまうと唐突にえもいわれぬ羞恥心と焦燥感にかられ、いてもたってもいられずつい叫び声を上げてしまう。
幼なじみにそんな感情を抱くなんて有り得ない。その上同性だなんて。でも、このやり場のない苛立ちはその感情でしか表現する事ができないのだ。
「おい、澪!」
「ひゃ、ひゃいっ!?」
「帰るぞ!!」
とりあえずこの場にいては変な感情に振り回されてしまう。かと言って自分一人だけ出て行くなど出来はしない。半ば強引に右手に自分の鞄と澪の鞄、左手に澪の右手を掴みその場から逃げる様に立ち去った。