モノグラム
夕方のオレンジ色に染まる街を律は澪の手を引いて歩いていた。その歩は少々早足気味で、手を引かれている澪は時々転びそうになっている。
痛い、離せ、と澪が言っているのも構わずにぐんぐんと歩を早める。夕焼け空の紅さも、通り過ぎる街の人々も、澪の声すら今の律には届かない。
「律、律ってば!逃げたりしないから、手離してよ!」
「だめ!離すのは私の家に着いてから!」
そんな会話を何度も繰り返しながら相も変わらぬスピードで歩いている内に、目的地である律の家に到着した。
今のこの時間帯では親も帰ってきてはいまい、と律は意気揚々と自宅の扉を開く。そうして一番最初に澪から投げられた言葉は、予想通り手を離せというものであった。
もう目的地に着いたことだし、こんな強い力であんまり長い間握っているとさすがの澪も怒りだすだろう。律はしぶしぶとその手を離した。
瞬間に澪は今まで掴まれていた手を急いで引っ込める。見ると、澪は僅かに体を震わせていた。
「そ、そんな怯えるなよ…。悪かったって、無理矢理連れてきて」
その口調がいつもの律と変わらぬもので、澪は少しだけ胸を撫で下ろす。掴まれていた手首がまだ少しだけ痛みを残しているけれど、これ位の痛みならば明日には治っているだろう。
そう思ったのも束の間、
「ところでさ、どうだった?」
「どうだったって…何が」
「決まってるだろ?唯とのキスだよ」
その一言で、空気が凍った気がした。
困惑を隠しきれずにいる澪は何か言おうと口を動かすが、何故か声が出ない。
しどろもどろとしている間にも律は一歩、また一歩と澪に近付き、遂には玄関の壁に澪の体を押し付ける様な体勢になる。かろうじて絞り出した「なんだよ」という言葉も情けない程に震えていて、澪は今すぐに逃げ出したい衝動に駆られた。
けれども背中には壁、前には律。逃げ場などどこにもなかった。
「澪ー。私さ、キスとかしたことないんだよね。だからさ、試してもいいかな?」
「な、っん…」
まるで噛みつくような口付けをされ、思わず澪は目をぎゅっと瞑る。どうにかして逃げようと首を下げるも更に唇を押し付けられるばかりで埒が明かず、遂には律を押し返そうと伸ばした腕まで壁に押さえつけられてしまった。
少し唇を離されては、また角度を変えて押し付けられる。二人の間を通る舌から漏れる水音が嫌に耳に残り、やり場のない羞恥心ばかりが込み上げてくる。
けれど、そんな事よりも澪は「試したい」という理由で唇を奪われたのが悲しくてたまらなかった。
「っ、ばか!もうやめ…ッ」
「やめない」
「ん、く…!」
どうしてこんな事をしてくるのだろう。好きだなんて、そんな気持ちを澪に対して持っていないくせに。なんとも思っていないくせに。
試したいなんて、そんな気持ちのない口付けだけは、絶対にしてほしくなかったのに。
「…〜ッ!馬鹿律!!」
「うぉ、わぁっ!?」
火事場の馬鹿力というものだろうか。今さっきまでピクリとも動かせなかった腕を渾身の力で振り回し、律の腕を振り解いた。しかめた顔で近寄る律に更に頭突きを食らわし、限界の端へ非難する。
一方、ものすごい威力の頭突きを頭に食らった律はゆったりと体を起こすと、そっと澪の方へ視線を向ける。澪は限界の端に体を向け、縮こまりながら震えていた。
――しまった。やりすぎてしまった。
「み…」
「うるさいバカ!バカバカバカ!!律なんて大嫌いだ!!」
その律の言葉を一切受け付けない澪の反応に、律はぐしゃりと髪をかく。澪に対して申し訳なかったという気持ちと同時に、自分の浅ましさに嫌悪感が溢れてくる。
――悔しかったのだ。
澪の唇を、初めての口付けを、ずっと側にいた自分ではなく…出会ったばかりの唯に奪われたのが。
どうしようもなく嫌だったのだ。澪の心が、体が、自分以外の誰かのものになってしまうのが。
そんなものは律の自分勝手な傲慢に過ぎないし、何より澪の気持ちを考えていない。それでも律は澪を離したくなかった。その独占欲が恋心だと知ったのはついさっき、紬に囁かれた直後である。
(約束…したんだ)
遠い昔。夜空の下で律と澪はありふれた約束をした。
唯一違うのは約束を交わした二人が男女ではない、というくらいだろうか。…同性だろうと関係ない、律はその日から澪を守ると誓ったのだ。
その誓った当人が澪を傷付けるなどとんだ茶番。でも、そうやって暴走してしまうのは、澪が何よりも大切だからだ。
「だっ、て…さ」
罪悪感に胸を痛めながらも、律は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。けれども澪の表情は一向に変化せず、涙の膜をいっぱいに溜めながら律を睨んでいた。それが余計に胸を締め付ける。
「仕方ないだろ…嫌だったんだから…」
「何が!」
「澪が私以外にキスされるのがだよッ!なんだよ、唯ん時は怒んなかったのに何で私だとそんな怒るんだよ!そんなに私が嫌いかよ!!馬鹿はどっちだよ馬鹿!!いい加減気付けよ!私は澪が、す、好きなんだよバカヤロ――ッッ!!!」
とうとう感情を抑えきれなくなった律が堰を切った様に叫び出す。もういっぱいいっぱいで、どうにもならなくなった想いが言わなくていい事まで言ってしまう。しかも挙げ句の果てに逆ギレ、澪のしかめっ面も鳩が豆鉄砲を食らったような顔になるわけだ。
「う、うそ…」
「…嘘じゃない、よ」
「嘘だぁ…!」
ところがその後に続いた澪の表情は律の予想と相反し、はらはらと涙まで零している。
てっきり逃げられるか気味悪がられるかのどちらかだと思っていたから、余計に澪の涙にあたふたしてしまう。こっちはふられるのを覚悟して涙を我慢する準備までしていたのに。
どうしたんだよ、と震える声で訪ねるとうるさい!と泣きながら怒鳴られてしまった。一体全体、泣いているのか怒っているのか、どちらなのだろう。
「ご、ごめんな、澪。大丈夫か?」
とりあえず謝ってはみたものの澪は泣き止まない。とはいえ、先程よりは大分落ち着き呼吸も安定しているように見える。
澪の背中を撫でながら、律は一言一言澪の言葉を聞き取っていく。私は、ずっと、昔から、お前が。
「……え」
それを聞いた途端、不意に不思議な動悸に見舞われた。胸が煩くて仕方ない、顔が熱くてたまらない。澪の顔をそっと覗いてみると澪も顔を耳まで真っ赤に染めていた。
それがとても可愛らしく、また愛おしくもなり、そこで漸く律は嗚呼両想いなんだと悟った。
「そっか、好きか…澪が私を……」
「な、なんだよ!お前だって私の事好きなくせに!」
「うっわやめろ恥ずかしい!」
「こ…っ、こっちだって恥ずかしいんだぞ馬鹿律っ!」
バシバシと叩かれるが今はそれすらも愛おしく感じる。いや、私は決してマゾヒストなどではないのだが、と律はぼんやり思った。
しかし両想いになったはいいが、澪の初めての唇が唯に奪われたという事実は変わらない。それだけが、どうしても納得いかない。
それを澪に伝えると澪は何食わぬ顔で、
「初めては律だけど」