口にしてはいけない
金吾は、何一つ自分の意志で決めたわけではなかった。ただ、状況に流されて、流されて、そうして逃げてきただけだ。
逃げて、逃げて、逃げた結果、まさか自分が大きな歴史の渦の流れを変えてしまうなどとは思いもしなかった。きっと、本当はわかっていなかったのだ。三成を裏切り、家康に寝返ると言うことは、すなわち三成を死に追いつめるということを。
「本当に、死んじゃうなんて……思わなかったんだよ」
情けない声が漏れるのが、自分でもわかった。お玉を握る拳が震える。
死ぬということの意味など、自分は知らなかった。家臣に守られて、何も知ろうとしなかった自分が知っているはずがなかったのだ。
「ワシもだ、金吾」
「家康さん」
「どうして、三成は死ななければならなかったんだろうな」
振り仰げば、家康はひどく疲れた顔をしていた。きらきらしい瞳に力はなく、堂々たる体躯もだらりと弛緩している。
「拳で語ったつもりだったんだが…そうだなあ。拳つきあわせるのではなく、お前のように二人で毎日鍋を囲んでいれば、もう少しわかりあえたのかもしれない」
後悔している。
この人は、きっと後悔しているのだ。ほかに何かわかりあう術はなかったのだろうか。戦い、殺しあう以外に、本当に何もなかったのだろうかと。
決して口にはしない。口にしてはいけないからだ。これから徳川の世が始まる。徳川の世において、石田三成は「悪」でなければならない。徳川家康が「正義」である以上、その敵は「悪」であると決まっているからだ。だから、家康は絶対に口にしてはいけない。惜しんではいけない。
無理だと思います、と金吾は控えめに言った。
「だってあの人、一刻も落ち着いて箸を握っていられないでしょう?」
鍋の中を見れば、具は既に火が通り、いいにおいが部屋に広がっている。家康の椀にとりわけ渡すと、家康は「それにあいつは偏食だしな」とくしゃりと笑って箸をとり、手を合わせた。