沈む街
――まさか、委員会の仕事がこんなに長引くとは思っていなかった。
腹に溜め込んだ雨粒を、今にも吐き出しそうな黒い雲を見つめながら、そう思った。
もくもくと膨れ上がった黒雲の根元は夕陽でうっすら赤く染まっていて、それがなんだか不気味に感じる。
雨に降られる前に、帰れるだろうか。
ふと校門に目をやると、色とりどりのランドセルを背負った子供達が、互いのランドセルをぶつけ合うようにしながら走っていくのが見えた。
自分もまだ高校生であるというのに、元気だなぁ若いなぁと年寄りじみた感想が脳裏を掠める。
僕が小学生だった時、あんなに元気だったっけ。
昔から、少ししょぼくれた男の子だったような気もするが、あの頃は、今みたいに雨に濡れることを気にしたことはなかったような気がする。
寧ろ、正臣と共に水たまりを蹴り上げたり傘を持っているのにそれをささずに走り回ったり――というか正臣に引っ張り回されていたり――したものだ。もちろん、家に帰ってからこってり叱られたのはいうまでもない。
その思い出に引きずられて、いつかの夏の情景がフラッシュバックする。
まだ小学生の僕と正臣が、畦道を二人で歩いているシーンだ。
その時も、確か、今みたいに雨が降りそうで降らない変な天気だった。
田んぼでは雨を求める蛙達が喧しいくらい鳴いていて、遠くで雷が鳴り始めて、正臣に手を引かれながら走って、突然雨が降り出して、雷が鳴って、それで……、それで――?
あれ……思い出せない。
細い記憶の糸を辿るが、やっぱり思い出せない。雨なんてもう何度も経験しているから、いくつもの記憶がごちゃ混ぜになってしまう。
それでもあの日の思い出を諦めきれずに、僕は黒い雲を見上げた。
「――帝人先輩?」
いきなり背後から名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がる。
思わず息をのんだ。
過去に飛んでいた意識が、急速に現実に引きずり戻される。
「あ、あぁ……。青葉君か……」
激しく打ちつける心臓を宥めながら振り返ると、そこには後輩である青葉君が立っていた。
「どうしたんですか、こんな遅くまで」
「え……と、委員会で、遅くなっちゃって」
「園原先輩は一緒じゃないんですか?」
「あぁ……うん、遅くまで付き合わさせるのも悪いし、暗くなると心配だから、先に帰ってもらったんだ」
さっき飲み込んだ空気が、腹の中で不穏に居座っている気がして、なんだか息苦しい。
それを誤魔化すように、会話を続ける。
そのまま、どちらからともなく一歩踏み出し、学校を後にした。
「青葉君、大分帰りが遅いみたいだけど今まで部活だったの?」
「はい、夏のコンクールが近いんです」
「へぇ、コンクールなんて凄いなぁ。どんな絵描いてるの?」
「うーん……秘密です」
「秘密、かぁ」
「もしコンクールでなにか賞をとったら、見せてあげますよ」
「わ、本当?」
「えぇ。まぁ、たぶん取れないと思いますけど」
「それじゃあ、見れないじゃないか」
「そういう事です」
くすくすと、青葉君が肩を揺らす。
雨が降る前特有の、むわっとした熱気と匂いが体を包んだ。
黒く固そうな雲からは、ゴロゴロと不安気な音がする。
青葉君が「雨、降りそうですね」と言ったのを合図にするかのように、空から糸のように細い雨が降ってきた。
本降りにならないうちに家につけばいいのだけれど……。
そう思ったのは僕だけではなかったようで、隣を歩く青葉君の歩調も、さっきより速くなっている。
「いたっ」
何かが、僕の頬を叩いた。
触らなくてもひんやりとした感触で雨だと分かる。
先ほどまでやわやわ降り注いでいた雨が、瞬く間に雨粒の爆弾となって傘を持たない僕達を襲った。
天気予報でも低い降水確率を予報していたからか、周りにいた人達も僕達と同じように傘を持っていなかったようで、弾けるように人が散り散りになる。
――家、雨漏りとかしてたらどうしよう。
現在進行形で雨ざらしになっているであろう僕の城である四畳半の心配をしていると、急に青葉君に腕を掴まれた。
「わっ、ちょっ……青葉君?!」
そんな戸惑いの声を聞いているのかいないのか、青葉君は僕の腕を掴んだまま走り始めた。
痛いくらいに僕の腕を掴んでいる青葉君の手の短く切りそろえられた爪が、うっすら青く色づいていることに気がつく。
これは、絵の具の色だろうか。
だとすると青葉君は、青い絵を描いているのかもしれない。
一言も喋らずに数歩先を走る青葉君の髪が揺れる度、ちらちらと形のいい耳が覗いた。
バシャバシャと水が跳ねて、制服のズボンが濡れる。
そのまま青葉君に半分引きずられるような形で、雨の降り込まない路地裏の中へと引き込まれた。
自分のペース以上の速さで走ったせいで、息が切れている。
それなのに、僕を引っ張っていた青葉君は全然息切れなんてしていないようで、なんだか情けなくなる。
何度も息を吸ったり吐いたりして、ようやく呼吸のリズムが落ち着きだした頃に、青葉君が申し訳なさそうに口を開いた。
「すみません、急に雨足が強くなったから、つい」
「だから、って、いきなり、引っ張らない、でよ」
「次からは、ちゃんと許可取ってからにしますね」
ニコニコと効果音が付きそうな程の笑みを浮かべている青葉君を見て、本当に反省しているのだろうかと訝しんだ。
雨に降られる街並みが、青白く映る。
映画みたいだと思いながら、ざあざあといくつもの雨粒が街に降り注ぐのを黙って見つめていた。
その時、一瞬視界が真っ白に染まり――少し間をおいた後、激しい轟音が体を揺さぶった。
腹の奥を揺さぶるような轟音にびっくりしていると、隣にいた青葉君がぽつりと「近くに落ちたかな」と呟いた。
その呟きが独り言なのか僕に向けられたものか分からなかったから、とりあえず「落ちたかも」と呟くように返事をしておく。
青葉君も僕も、それから何も言わず、雷鳴に耳を澄ませた。
しんとした雰囲気が、漂う。
なんだか息がうまく吸えなくて、苦しくて、肩掛け鞄の紐をぎゅっと握った。
「帝人先輩」
学校の玄関先にいたときと同じように、名前を呼ばれる。
青葉君の方を向こうとした瞬間、視界に細い腕が入り込み、思い切りネクタイを引っ張られた。
「な……、んっ」
いきなり口を塞がれたうえに、鼻までつままれて息ができない。
案の定すぐにキリキリと肺が痛み出し、それに耐えきれなくなって青葉君の肩を押す。
すると、思っていたよりもあっさりと、青葉君の口は離れてくれた。
「っ……はぁ、ごほっ!」
勢いよく酸素を吸い込み、ひゅっと喉が鳴る。
苦しくて浮かび上がってきた涙を拭い、青葉君を軽く睨む。
僕の睨みなんてなんでもないように青葉君は「すみません、なんかさっきから帝人先輩息苦しそうだったから、つい」と人好きのする顔でやんわり微笑んだ。
ネクタイはまだ、掴まれたままで、顔と顔は近づいたままだ。
気まずさから、目をそらす。
「だからって、いきなりキ――……ああいうことしないでよ」
キスという単語を口にするのが気恥ずかしくて、適当はぐらかす。
「次からはちゃんと許可取ってからにしますね」
「それ、さっきも聞いたんだけど」
腹に溜め込んだ雨粒を、今にも吐き出しそうな黒い雲を見つめながら、そう思った。
もくもくと膨れ上がった黒雲の根元は夕陽でうっすら赤く染まっていて、それがなんだか不気味に感じる。
雨に降られる前に、帰れるだろうか。
ふと校門に目をやると、色とりどりのランドセルを背負った子供達が、互いのランドセルをぶつけ合うようにしながら走っていくのが見えた。
自分もまだ高校生であるというのに、元気だなぁ若いなぁと年寄りじみた感想が脳裏を掠める。
僕が小学生だった時、あんなに元気だったっけ。
昔から、少ししょぼくれた男の子だったような気もするが、あの頃は、今みたいに雨に濡れることを気にしたことはなかったような気がする。
寧ろ、正臣と共に水たまりを蹴り上げたり傘を持っているのにそれをささずに走り回ったり――というか正臣に引っ張り回されていたり――したものだ。もちろん、家に帰ってからこってり叱られたのはいうまでもない。
その思い出に引きずられて、いつかの夏の情景がフラッシュバックする。
まだ小学生の僕と正臣が、畦道を二人で歩いているシーンだ。
その時も、確か、今みたいに雨が降りそうで降らない変な天気だった。
田んぼでは雨を求める蛙達が喧しいくらい鳴いていて、遠くで雷が鳴り始めて、正臣に手を引かれながら走って、突然雨が降り出して、雷が鳴って、それで……、それで――?
あれ……思い出せない。
細い記憶の糸を辿るが、やっぱり思い出せない。雨なんてもう何度も経験しているから、いくつもの記憶がごちゃ混ぜになってしまう。
それでもあの日の思い出を諦めきれずに、僕は黒い雲を見上げた。
「――帝人先輩?」
いきなり背後から名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がる。
思わず息をのんだ。
過去に飛んでいた意識が、急速に現実に引きずり戻される。
「あ、あぁ……。青葉君か……」
激しく打ちつける心臓を宥めながら振り返ると、そこには後輩である青葉君が立っていた。
「どうしたんですか、こんな遅くまで」
「え……と、委員会で、遅くなっちゃって」
「園原先輩は一緒じゃないんですか?」
「あぁ……うん、遅くまで付き合わさせるのも悪いし、暗くなると心配だから、先に帰ってもらったんだ」
さっき飲み込んだ空気が、腹の中で不穏に居座っている気がして、なんだか息苦しい。
それを誤魔化すように、会話を続ける。
そのまま、どちらからともなく一歩踏み出し、学校を後にした。
「青葉君、大分帰りが遅いみたいだけど今まで部活だったの?」
「はい、夏のコンクールが近いんです」
「へぇ、コンクールなんて凄いなぁ。どんな絵描いてるの?」
「うーん……秘密です」
「秘密、かぁ」
「もしコンクールでなにか賞をとったら、見せてあげますよ」
「わ、本当?」
「えぇ。まぁ、たぶん取れないと思いますけど」
「それじゃあ、見れないじゃないか」
「そういう事です」
くすくすと、青葉君が肩を揺らす。
雨が降る前特有の、むわっとした熱気と匂いが体を包んだ。
黒く固そうな雲からは、ゴロゴロと不安気な音がする。
青葉君が「雨、降りそうですね」と言ったのを合図にするかのように、空から糸のように細い雨が降ってきた。
本降りにならないうちに家につけばいいのだけれど……。
そう思ったのは僕だけではなかったようで、隣を歩く青葉君の歩調も、さっきより速くなっている。
「いたっ」
何かが、僕の頬を叩いた。
触らなくてもひんやりとした感触で雨だと分かる。
先ほどまでやわやわ降り注いでいた雨が、瞬く間に雨粒の爆弾となって傘を持たない僕達を襲った。
天気予報でも低い降水確率を予報していたからか、周りにいた人達も僕達と同じように傘を持っていなかったようで、弾けるように人が散り散りになる。
――家、雨漏りとかしてたらどうしよう。
現在進行形で雨ざらしになっているであろう僕の城である四畳半の心配をしていると、急に青葉君に腕を掴まれた。
「わっ、ちょっ……青葉君?!」
そんな戸惑いの声を聞いているのかいないのか、青葉君は僕の腕を掴んだまま走り始めた。
痛いくらいに僕の腕を掴んでいる青葉君の手の短く切りそろえられた爪が、うっすら青く色づいていることに気がつく。
これは、絵の具の色だろうか。
だとすると青葉君は、青い絵を描いているのかもしれない。
一言も喋らずに数歩先を走る青葉君の髪が揺れる度、ちらちらと形のいい耳が覗いた。
バシャバシャと水が跳ねて、制服のズボンが濡れる。
そのまま青葉君に半分引きずられるような形で、雨の降り込まない路地裏の中へと引き込まれた。
自分のペース以上の速さで走ったせいで、息が切れている。
それなのに、僕を引っ張っていた青葉君は全然息切れなんてしていないようで、なんだか情けなくなる。
何度も息を吸ったり吐いたりして、ようやく呼吸のリズムが落ち着きだした頃に、青葉君が申し訳なさそうに口を開いた。
「すみません、急に雨足が強くなったから、つい」
「だから、って、いきなり、引っ張らない、でよ」
「次からは、ちゃんと許可取ってからにしますね」
ニコニコと効果音が付きそうな程の笑みを浮かべている青葉君を見て、本当に反省しているのだろうかと訝しんだ。
雨に降られる街並みが、青白く映る。
映画みたいだと思いながら、ざあざあといくつもの雨粒が街に降り注ぐのを黙って見つめていた。
その時、一瞬視界が真っ白に染まり――少し間をおいた後、激しい轟音が体を揺さぶった。
腹の奥を揺さぶるような轟音にびっくりしていると、隣にいた青葉君がぽつりと「近くに落ちたかな」と呟いた。
その呟きが独り言なのか僕に向けられたものか分からなかったから、とりあえず「落ちたかも」と呟くように返事をしておく。
青葉君も僕も、それから何も言わず、雷鳴に耳を澄ませた。
しんとした雰囲気が、漂う。
なんだか息がうまく吸えなくて、苦しくて、肩掛け鞄の紐をぎゅっと握った。
「帝人先輩」
学校の玄関先にいたときと同じように、名前を呼ばれる。
青葉君の方を向こうとした瞬間、視界に細い腕が入り込み、思い切りネクタイを引っ張られた。
「な……、んっ」
いきなり口を塞がれたうえに、鼻までつままれて息ができない。
案の定すぐにキリキリと肺が痛み出し、それに耐えきれなくなって青葉君の肩を押す。
すると、思っていたよりもあっさりと、青葉君の口は離れてくれた。
「っ……はぁ、ごほっ!」
勢いよく酸素を吸い込み、ひゅっと喉が鳴る。
苦しくて浮かび上がってきた涙を拭い、青葉君を軽く睨む。
僕の睨みなんてなんでもないように青葉君は「すみません、なんかさっきから帝人先輩息苦しそうだったから、つい」と人好きのする顔でやんわり微笑んだ。
ネクタイはまだ、掴まれたままで、顔と顔は近づいたままだ。
気まずさから、目をそらす。
「だからって、いきなりキ――……ああいうことしないでよ」
キスという単語を口にするのが気恥ずかしくて、適当はぐらかす。
「次からはちゃんと許可取ってからにしますね」
「それ、さっきも聞いたんだけど」