僕と肋骨と蛇のバロット
「君は意外と、不器用なんだねぇ」
絵を描くその横顔が、突然そんなことを言った。僕は珍しく――と言うか初めて――その横に腰かけているところだった。テレピンの匂い。海を切り取ろうとするキャンバス。
「僕は何でも知っている」
彼は独り言のように続けた。さながらキャンバスに語りかけるよう。
「僕は君のことなら何でもわかる」
「どうしてわかる?」
「僕も君のことが好きだからね」
「好きだったらなんでも解るのか?馬鹿げてる。君は僕を何も知らない」
「そうかい?確かにそうかも知れないね?じゃあ君は君の何を知っている?」
「はあ……?」
「全部、知ってるとは言えないね。――ところで君はベーコンを知っているかい。デカルトは?パスカルは?ピコデラミランドラは?ニーチェは?キルケゴールは?」
「あの――……」
彼は筆を置いた。キャンバスではなく僕を見て、彼は目を細める。今度貸してあげよう。読んだ方がいい。
「人間は矮小な存在だ――……僕も、君もね。だからこそ悩む。悩むことによってこそ、人は禽獣にも神にも成り得る。選択と試行錯誤。淘汰。知能。学習。人をヒエラルキーの頂点にし得る…」
「……あの」
…話にならない。僕は失望して腰を挙げた。この人に会うことで、何か得られる気がしていた自分を今更馬鹿らしく思う。
「行くかい?じゃあ、また」
「…………」
また、……ねぇ。僕は内心溜め息を吐いた。彼と海に背中を向けて、歩き出す――……
「最後に、もう一つ」
…僕は足を止めた。振り返る。彼はもう僕を見ていなかった。彼と海とキャンバス。それだけ。彼は大人が子供に諭すように、ゆっくり言った。
「君の選択は間違っちゃあいないよ。でも正しいとも言えないと、僕は思う」
原罪。
全ての欲望の根源。人類全てに根差す罪――……
アダムとイヴ。エデンの園。蛇の甘言。林檎。神。知性。追放。
しかし、始めに二人が抱いた欲求とは、帰属意識ではなかろうか。神は土塊から始めにアダムを造り、その肋骨からイヴを造った。肋骨の帰属意識。愛ではない。知性がないなら、愛を知らない。そもそも二人は、人間ですらない。知性こそが人間と動物を区別すると言う先哲に従うなら。
…そして、究極の疑問。何故、林檎があったのか。何故、蛇が居たのか。そもそもそれがなければ、なかった罪だ。
林檎が→罪で→罪が→悪なら→林檎がなければ良かったのだ。ならば、神は、二人を疑いしか。猜疑心は悪か?なら、神は――……?
バロット。殻に閉じ込めた雛鳥を煮殺す料理。雛は恨むだろうか?其処で死ぬために生まれた命を悼むだろうか?―――いや。
外を知らないなら、恨むこともない。悼むこともない。―――なら。
僕は?彼女は?殻の向こう側を想うだけの時間を与えられた僕らは?殻を破れなかった何代もの僕は?死ぬために生きることにどんな意義を見出だせばいい?永劫回帰する僕の意義は?
人間誰しも思い込みを持っているから→疑い得ないのは自分だけだけど→その自分すら悩むことはやめられず→しかしそれによって自分を掴み取ることにこそ人間の尊厳があり→ルサンチマンの世を永劫回帰する苦しみの中→そのために生き、死のうと思える僕のイデー――……
「私がいつ、守って欲しいって言ったの!?」
放課後。教室。廊下で彼奴が意味深に笑った。僕は彼女の肩越しにその背中の去っていくのを見る――お節介な奴。
「何でも解ってるみたいな呈で、ほんと昔から……何にも解ってないんだから」
彼女の瞳から一筋、清浄な滴が零れ落ちるのを見た。思わず拭おうと差し出して、躊躇った手を彼女が掴んだ。僕は困惑する。
「図体ばっかりでかくなっちゃって。ばーかばーか」
「……ワコ」
「ばーか」
握り返した手を、彼女を拒まなかった。何故彼女はないているんだろうと、僕は思った。彼女の流す涙はあの時と変わらない。それでも彼女はもう子供ではなかった。……子供なのは、僕の方だったのか?
「スガタくんに私の何がわかるの?ずっと一緒にいたって婚約者だって他人じゃん。勝手に突っ走らないで、訊いてよ。何でいつも私のこと置いてこうとするの?私がそれで喜ぶと思ったの?…早合点しすぎ、短気」
「…………」
「ばか」
彼女の拳が僕の胸を叩く。…痛くは、ない。のに、何処か痛い気がするのは何故だろう。胸が塞ぐようなそんな辛さも。彼女を抱き締めたいような突き飛ばしたいような二律背反に囚われながら、結局何も出来ないぼく。僕は、
「王子様とかまず、21世紀的に古いんだよばーか」
「……そうかな」
「幾つよほんと」
「そっか…」
先に抱き締めてきたのは彼女の方だった。みっともなく僕は硬直しただけ。彼女はまた、ばか。と呟いて、ちょっと笑った。……そう言えば、昔から彼女の方が大人だったっけ――……
「スガタくんも、…出られないんでしょ?」
「うん……でもワコちゃん、大丈夫だよ。大きくなったらぼくがワコちゃんをおよめさんにしてあげる!だから――……」
「それ何もカイケツになってないじゃん」
「あー……」
「……しょーがないなーもう。はい、ゆび!」
「ゆび?」
「約束?」
「うん!」
『ゆーびきーりげーんまーん嘘ついたら…』
作品名:僕と肋骨と蛇のバロット 作家名:みざき