痛みも、傷も。
「こないだ、…つっても結構前なんだけどよ。セルティと、それからお前とよく一緒にいた眼鏡の…」
「園原さんですか?」
「悪いが名前は覚えてねぇ。セルティとそいつが、お前のことをすげぇ心配してた」
セルティとは、ストーカー事件の時新羅のことで電話をして以降会っていない。『おかげで新羅が助かった』というメールを貰ったが、それきりだ。セルティも、新羅の看病や自分のことで手いっぱいなのだろう。
杏里とは、ブルースクエアと手を結んでからは意識的に遠ざけるようにしている。そのことに疎外感を感じているのかも知れないが、今のところ帝人はその距離を縮めるつもりはない。
「なんだかよくわかんねぇけど、周りに心配かけんなよ?」
それは大人として、静雄の立場としては当然の意見であり忠告だった。が、一瞬、ほんの一瞬だけ、帝人は静雄に怒りを覚えた。
力がないから苦しんで、捨てられないから足掻いて、少しずつ癒えない怪我が増えていく。そんな姿にセルティは心配を覚えるのだろうから、それはわかる。ありがたくも思う。
けれど、自分が手放せずに抱え込んでいるものを瞬時に捨ててしまえる男に、帝人がどんなに望んでも手に出来ない、他者をたやすくねじ伏せる力を持つ静雄に、そんなことを簡単に言われたくはなかった。
「そこにあなたの心配はないんですね…」
「…へ?」
「なんでもありません。伝えてくださってありがとうございました」
静雄が心配しているのは、帝人自身ではなく『帝人を心配するセルティ』だ。だからさっきの言葉は正しい。セルティに迷惑をかけるなと、そう言いたいのだろう。
静雄に悪気がないのはわかっている。わかっていても、彼の言動はいつも帝人の心を食い荒らした。傷つくのは帝人の勝手で、静雄には何の責任もない。なにかがきしんで、どこかが歪んで、いつか壊れてしまったとしても―――それでも彼には悪意のかけらさえないのだ。
どこまでもまっすぐで、どこまでも真っ白で、そこに染みひとつつけることもできずに静雄の中から消えていく、自分。取るに足らない存在とは、きっとこういうことをいうのだろう。
「そういや、あん時は悪かったな」
そんなことを考えていたから、帝人は静雄の謝罪の意味がすぐには理解できなかった。
「…え?」
「ほら、前にダラーズ抜けるって、お前に言っちまったろ? 子供を巻き込むなって、セルティにも怒られたんだよな」
「そう、…ですか…」
抜けるからよろしく、とは言われたものの、帝人は静雄の登録をまだ外してはいない。
なぜといって、静雄が『ダラーズのメンバーの一人である帝人』に対してそれを告げたのなら、本来はどうしようもないことだからだ。一介のメンバーに他のメンバーの登録を削除する権利など、当然だが、ない。
…そう自分に言い訳をして、帝人は敢えて静雄の登録をそのままにし続けていた。
「すみません、あの、登録者本人でないと退会出来ないと思うんです…、その、パスワードとかありますし」
「そういうもんなのか?」
「だから、まだそのままになってるんです。…すみません、言っておくべきでしたよね」
「あー…、いや、こっちこそ悪かったな。変な気ぃ遣わせてよ」
あまり細かい事を気にしない静雄の事だ。あの時は、怒りに任せて「抜ける」などと言ったのかもしれない。
ならば時間の経った今、面倒くささを理由にそのままにしておいてくれるのではないかと、―――それは帝人にとっての賭けだった。
彼がダラーズに残って、それで今更何がある訳でもない。ないのだけれど、それでも帝人は彼にダラーズにいて欲しかった。…だが。
「お前、ずいぶん詳しいんだな?」
「そうですか? 普通だと、…思いますけど」
「俺は機械とか苦手だからよ。―――そっか、今お前にやって貰えばいいんだよな?」
「…今、ここで、…ですか…?」
受けた衝撃は、思っていたよりも大きかった。心臓を鷲掴みにされるような痛みに耐える帝人に、静雄はなんの躊躇いもなく自分の携帯を差し出す。
受け取ったそれをゆっくり開くと、いくつか操作してダラーズのサイトを開いた。見慣れたロゴとメッセージ。窺うように見上げると、静雄が自分のハンドルネームとパスワードを告げる。
時間をかけてそれを打ち込み、『退会しますか?』の文字が出た所で帝人は携帯を静雄に返した。
「そのままボタンを押せば、……それで退会できます」
何とか搾り出した声に、彼はあっさりとボタンを押す。今頃、帝人のパソコンにはその届けが受信されているのだろう。
静雄が抜けてもダラーズになんの影響もない。ビッグネームの離脱は確かに痛いが、そもそも彼の名を利用して何かをするような組織でもない。
影響があるのは、ダラーズではなく帝人の方だ。…けれども自分は、賭けに負けた。
「お前はまだ続けてんのか?」
「…ええ」
「最近、内部でゴタゴタしてんだろ? お前みたいなやつが、そんな組織にいて大丈夫なのか?」
「そうですね…」
静雄にとってダラーズがもはや何の価値もない代物である事に、帝人は切り裂かれるような痛みを抱いた。ダラーズに価値を見出さないのなら、帝人が創始者である事もまた、彼にとっては何の意味をも齎さない。
だが帝人自身は、今は創始者であるということ以外に自分の存在意義を託せるよすががなかった。ダラーズに関係なく、ただ自分を必要としてくれた親友はもういない、…から。
「でも、…創るだけ創って手に負えないからやめるだなんて、そんなの無責任でしょう…?」
言い終えると同時に、まるで計ったかのようなタイミングでメールを告げる着信音が鳴った。
携帯を開くと、画面には青葉の名とすっかり見慣れた『任務完了』の4文字。
―――そう、今更後戻りは出来ない。帝人はあの日、自らそれを望んだのだ。青葉の策に乗り、正臣の手を振り払って、杏里から遠ざかった。仮に今舞台を降りたとしても、彼に残るのはブルースクエアからの報復だけだ。
「すみません、待ち合わせ場所が変更になったみたいなので」
僕行きますね、と立ち上がったところで帝人は腕をつかまれた。
座ったままの静雄が、サングラス越しに帝人を睨んでいる。
「…今のはどういう意味だ?」
恐らく本人に睨んでいるつもりはないはずだ。が、眉間に寄せられた皺が、見る者が見れば悲鳴を上げて逃げ出しそうな表情を作り上げている。
そして、帝人の目にはそれは心配している顔に見えた。恐らくセルティの口から語られる静雄の人物像が、そのまま帝人の中に根付いている所為だろう。静雄が、帝人を個人的に心配する理由などどこにもない。心配を受けるほど話をしたことも、ない。
「…冗談ですよ」
「お前、」
「―――そう、言って欲しいんですか?」
一瞬緩んだ腕を取り戻し、帝人はいつものように笑った。なんの翳りもない笑顔で。
「…さようなら」
静雄がどう取ろうともう構わなかった。彼は今、自ら帝人との繋がりを断ち切ったのだ。
セルティの知り合い。来良の後輩。顔見知り。池袋の有名人と、平凡な高校生。―――ただそれだけの、関係。
それでも一瞬、帝人は追ってくる声を期待していたのかもしれない。
振り向く機会を与えられないまま公園を出た帝人は、今度こそ、自分の想いを切り捨てた。