ファタルの埋葬
眠ってしまった三成を眺め、そっと立ち上がる。いつまでもここにいるわけにはいかなかった。廊下へ出て、静かに歩きだす――その足が、さほど進まないうちに止まった。
回廊に立って自分を見据えるその男の、眼に浮かんでいるものは嘲弄にも思えた。
「半兵衛殿……!」
押し殺した声で名を呼ぶ相手に対し、悠然と腕を組んだ半兵衛は薄く笑うだけだ。
「どうして、……軍を率いさせておきながら、……ただ一人の手による殲滅などと…。三成の傷は負わなくも良かった傷だ、怪我だけではない、殺戮自体が心をすり減らして傷つけるに決まっている。捕虜に出来た者も多くいたろうに、何故そんな非道を強いた!」
「何故、と聞くのかい?」
家康の糾弾に、半兵衛は揺らがぬままだ。
「僕にはあの子の力を把握する義務があるんだよ。それによりこれから先、取れる策も変わるのだからね。そしてあの規模であれば、三成君になら出来るだろうと判断した。そうと判断したから任せたまでだ。
……傷つくことは悪いことかな?家康君。君も知っているはずだよ、傷を避けた末に戦場で躊躇う、戸惑う、怯える、その末路を。あの子はひとつ山を乗り越えた。三成君はもう自分の力無きことに怯える必要はないんだ、あの子は強者である自分をその身で知り尽くしたのだから。ふふ、よかったね、これで三成君は更に死から遠ざかる――ね、そうだろう?」
そうじゃあ、ない。
それでは代わりに奪われた者は、その意味は何処に。
否定の声は押し潰された。
「可哀想に、……君に置いて行かれると怯えていた」
軍師の漏らした言葉に。
「もっともっと力が欲しいのにと嘆いて、哀しんで、焦って、ねえ知っていたかな?あの子はもう随分と前から夜に君の部屋の前でね、膝を抱えて蹲って、ああこの夜だけで君はどれだけ強くなるんだろうと怯えながら過ごしていたんだよ。同じ力を保てなければ安心できない、秀吉に見限られる、君にも認められなくなるかもしれない、そんな風に思いこんで――ああ、もちろんそんなはずがないとは伝えてあげたけれど」
半兵衛は歌うように言葉を紡ぐ。
家康は立ち尽くしたまま、あの夜を思い出す。三成の眼も声も羨望を秘めてはいたが、怯えてはいなかった。三成は、それだけは家康に見せなかった。
「でもねえ、僕は少しばかり余計なことにも気付いてしまった。――きっと、君の成長が止まっても、あの子は君の部屋へ行ってしまうんじゃないかって」
軍師は微笑む。
「あの子を女にしてはいけないよ、家康君」
そして見つけたばかりの答えをいとも簡単に捕えて、潰される。
「とてもとても、見つけた時から大事に育てて来たんだよ。君たちがそんなものを育んで、情を交わして、ましてやあの子がややを身籠ったりしたらね。
――あの子の子供だったら僕は愛してしまうかもしれないから」
愛を囁く声色の冷たさに。
慈しみを湛えた瞳が形作る哂いに。
家康はとうに知っていた歪みをもう一度思い知らされた。
愛も情けも否定する、豊臣の在り方を既に心得ている。
半兵衛はそれを決して認めないだろう。そして、半兵衛が認めないものを、三成が受け入れるはずはなく。
「貴方たちの考えは……おか、しい」
どうかな、きっと君にもいつかわかるよ。軍師は囁くように言った。
「情はいつしか君を苛む枷になるだろう」
三成はその日のことを覚えていないようだった。家康がもう一度日を改めて見舞った時、三成へ慰撫するような言葉をかけると、すでにはっきりと意識を取り戻していた三成はいつもの通りに噛みついた。貴様、半兵衛様から授かった私の誉れを侮辱するか!あの日確かに垣間見えた殺戮の怯えも家康の不在を責めた弱さも、家康がもう一度捕えようとした時には、すでに跡形もなく姿を消していた。
家康の隣に戻ってきたのは、昔も今も変わらない、痛々しい程の一途な忠誠を天上の二人へ向ける姿だ。
そして三成はもはや家康に対し、羨望の眼を向けることはなかった。三成の中へ刻まれた自信と自負と歪みは、三成を苛んでいたものを総て綺麗に取り払っていた。
家康はそれを見て悟る。
おそらく、二度と、三成は家康に寄り添って寝るようなことを求めはしないだろう。
濡れそぼつ程の血を浴びた三成は、手に入れた心の平穏と引き換えに、少女の無邪気さと名前もつけられない程曖昧な情の揺らぎを削ぎ落としていた。
あの日に細い身体を抱え込んで、眠ってしまえば、良かったか。
告げる前に失くしたものの残骸を抱えて、今も三成を見つめている家康は、軍師がその耳元で囁いたであろう言葉を知らない。
(そう。それが、怖いんだね)
(ねえ三成君、家康君の隣にいるために必要なものは、何だと思う?)
その時に使われた餌だけは、秀吉ではなかったのだと、家康は知らないままだった。