すべてをゆらして
目覚めかけた意識は瞼にかかる光が強くないことを知らせる。もう少し寝ていたいと思う気持ちを抑え、時刻を知るため目を明けると、暗い部屋の中でつけっぱなしだったテレビが不気味な色を落としていた。
栄口は一気に血の気が引いた。今何時だろうか、一体何時間寝てしまったんだろう。クリアになっていく感覚に、伸ばした片腕から重みを感じる。暗闇に慣れた目が見たのは、栄口の腕を枕にして、のんきな顔で寝ている水谷の顔だった。
(……普通逆じゃないのか、こういうのって)
腕を抜いても全く目を覚ます気配のない水谷を栄口は揺すって起こした。
「……まだ夜じゃん……寝かせてよぅ」
「ばか! もう夜なんだよ!」
その言葉をようやく咀嚼した水谷が毛布を弾き飛ばして身を起こした。
「よよよ夜じゃん!」
「さっきからそう言ってるだろ!」
「今何時っ?」
「なんでお前の部屋時計無いんだよ!」
半ばキレ気味に「あるもん!」と返した水谷がごそごそとベッドの下を探している。そういえば以前、手の届くところに目覚まし時計を置いておくとすぐ止めてまた寝てしまうという話をしていたことを思い出した。しかし何も身に着けずに身体を屈め、隙間へ手を伸ばす様子はひどく間抜けで、悪いと思いつつも栄口は笑いをかみ殺した。
「あった!」
埃まみれの目覚まし時計を二人で目を凝らし読み取った。
「なんだウチ来てから一時間半しか経ってないじゃん」
「オレてっきりもう九時過ぎくらいかと思ってた……」
「栄口、昼も居眠りしたから時間感覚がおかしくなってるんじゃないの?」
まだ眠いと瞼をこすり肩へ身体を預けてきた水谷に、栄口はこいつにしてはもっともなことを言うと感心してしまった。
乾燥機に入れた服を取りに水谷が部屋を出て行ったのを見計らい、栄口はそのままベッドへ身体を傾けた。昼に一回、夕方に一回寝てしまったせいで時間の進み方がおかしく、頭の中は今日がもう今日では無い感覚だ。しかし今日という日はまだ移ろわず、水谷ととうとう一線を越えてしまったことも事実だった。
まだ熱気の残る洗濯物を受るとすぐに着替え始めた栄口に、水谷はまだオヤ帰って来てないしもうちょっと、と甘ったるく腕を回し、駄々をこねた。すると栄口は大きく息を吐いた後、「オレ水谷の母さんの顔まともに見れる自信ないよ」なんて言うものだから、それもそうだなと納得し自分も外へ出かける準備をすることにした。
「なんでうちのかーさんと顔合わせるのがダメなの?」
「なんとなく罪悪感が」
シャツのボタンをひとつひとつ丁寧に留めていく栄口らしい回答に思わずふき出してしまった。
身支度を整えた二人が玄関のドアを開けると、雨は既に上がり、アスファルトの上にまだ留まろうとする雨水がじめじめとした空気を作り出していた。
濡れたままの靴で歩くたび靴下へと染みてくる水分が心地悪い。それが分かっていたのだろう、水谷は青いビーチサンダルをつっかけて栄口の隣を歩く。空にはどんよりと重苦しい雲がたち込め、普通の日であればまだ多少明るい道をとっぷりと夜にしてしまっている。
「さかえぐちぃ」
「ん?」
「手ェつないでもいーい?」
そこの角を曲がったらね、と指された路地は人通りが少なく、街灯が頼りなさげに点々と行く先を照らす。所々にできた水たまりがその淡い光を反射し、遠くでゆらゆら輝いている。通いなれた道だったが、雨が降ったせいかしっとりとした空気が漂い、いつもよりひっそりとしていた。
大通りから差す照明がなくなるとすぐに手を絡め取られたから栄口は驚き、思わず水谷の顔を見た。
「ごめんなさい」
珍しくかしこまった面持ちで謝ってくる水谷の真意が量れない。歩みを止め、どうしたの?と顔を覗き込んだら、慌てて突き放されたものだから、栄口はもう本当に水谷がわからなくなってしまった。
離されると思った手はさらに強く握り締められる。水谷は口をつぐんだまま歩き、栄口はそのサンダルが地面に立てる間の抜けた音をただ耳に流していた。
そうして道の中ほどまで通りかかると、二人並んでは歩けないくらいの水たまりに出くわした。歩道からいったん車道に出ないと避けられなかったため、栄口が車道側へと引き寄せたら、水谷はあっさりその手をほどいてしまった。
気後れした栄口をよそに、水谷の青いサンダルが大きな水たまりをジャブジャブと掻き分けてゆく。
「水谷、濡れるよ」
「いいよビーサンだし」
日に焼けていない白いつま先がしなって淀んだ水を蹴り上げる。道脇の草へはたはたと雫が落ち、その不可解な行動はさらに栄口を困惑させる。
「汚いだろ、水たまりなんだから」
「だって栄口イってなかったもん」
どういう話の繋がりなんだ。不意打ちを喰らってしまった栄口はたじろぎ、言い返すことができない。
「つうか俺が……、俺ばっかり」
「や、そんなの別に気にしてないし」
水谷の足がぐるぐると水たまりの中をかき混ぜた。本当に気にしていないというのが本音だったため、いじけてしまった水谷をどう励ましたらいいのか検討もつかない。
珍しく路地へ入ってきた車のライトが、濡れた水谷の足首の当たりをぬらりと白く照らす。鳴らされたクラクションに車道にいた栄口はひょいと縁石を飛び越え歩道のほうへと着地すると、大げさな音を立て水しぶきが水谷の脛にかかった。何食わぬ顔で水谷が突っ立っていたものだから、そこに水たまりがあったことをすっかり忘れていた。
「へへへ」
「何がおかしいんだよ……」
「さかえぐち」
何? と聞き返す前に両手を取られ、湿った暗がりの中でほてった水谷の手がためらうことなく体温を伝えてくる。熱い指先が栄口の存在を確かめるようにゆっくりとあごから唇をなぞる。
(あ、やだな、またあの顔だ)
さっきの行為を思い起こさせる水谷の表情を見たくないがために目を伏せた栄口にかまうことなく、異様な熱を持った水谷の唇が合わせられた。水たまりの中のスニーカーはすっかり床上浸水しきっていた。
「……明日このクツ履けねーよ」
ふやけた唇をぬぐいながら栄口が小さく吐いた苦言は、また寄せられた水谷の唇によって意味を成さなくなった。続けられるはずだった言葉は水谷の熱い舌がゆるゆると溶かしてしまう。身じろぎすると水たまりの水面が揺れ、それは繰り返すキスの音に少し似ていた。
(夢に見たらどうしてくれるんだよ)
水谷の瞼をふちどる線をぼんやり眺めた後、栄口は気づかれないうちにひっそりとふたたび視界を閉じた。