Freeze Frame
スガタは砂を洗う波に視線を落とした。
しばらくそのまま足元を見つめてから、彼はおもむろに靴を脱ぎ、きちんと揃えて砂の上に置いた。続けて靴下も脱ぐと、丁寧に折り畳んで靴の上にそっと置く。ズボンが波で濡れないようにくるくるっと裾を折ってから、彼は水の中に入っていった。海水は、なまあたたく、やわらかい波が足にまとわりついてくる。
スガタは浜に打ち寄せ、また引いていく波を見守った。
波が繰り返し浜を洗うように、タイムループは永遠に続いていく。運命に逆らうなんて不可能だ。
そこで強い風が吹き付けて、スガタはひとたび目を閉じた。
だけど――本当に?
絶対、なんてこの世にあるんだろうか。
何にでも例外が付き物だとすれば、これにも抜け道があるかもしれない。たとえば、何かきっかけのようなものがあるのなら。
スガタは顔を上げ、水平線に目をやった。
あの海の向こうに自分が赴く日は訪れるのだろうか。
運命に逆らって島から出て行く日は――?
しかし、と考えてスガタは綺麗な眉をかすかにしかめる。
それは同時に禁忌を破ることになるのだ。その代償として、良からぬことが起きるのは間違いない。彼が見捨てて出て行った島の奥底では不幸が始まるだろう。
もちろん、危険な賭けなど出来っこない。だから彼は、今日も波打ち際にたたずむことしかできないのだ。
海の風を顔で受け止めながら、スガタはふたたび目をつぶった。そうしていると、潮の香りがぐんと鼻に突いてくる。
この浜は、タクトと初めて出会った場所だ。
死の危険を顧みず、島まで泳いでやってきたという赤毛の青年。スガタは彼のことが最初から気になっていた。銀河美少年という特殊な立場に彼が置かれている、ということとは別に。好奇心から、と言えなくもないけれど、それとは違う、何かの理由で。スガタにはその気持ちがなんという名前なのかわからない。
タクトと一緒にいるのは純粋に楽しい。彼は外の世界の気配をまとっている。タクトは外の空気の匂いがするのだ。青い海で彩られた雑誌以外に、スガタが外界を知るための、数少ない手段のひとつ。だけど、それだけで簡単に他人に惹きつけられたりするスガタじゃない。むしろ彼は排他的な性質なのだ。だからこそ彼はタクトといることでより多くの戸惑いを感じていた――タクトと一緒にいると自分がさまざまな感情に支配されるから。
たとえば落ち着かなかったり、やけに攻撃的になってしまったり。頻繁にイライラさせられたり。それだけじゃない。見栄を張ったり意地を張ったり、今まで経験したことがないさまざまな感情に襲われてしまっている。
しかし、理由はわからない。そのわからないという事実に苛立ちが更に増していく。
それでもスガタはなんとかポーカーフェースを保っていた。
胸の内を隠しながら、知らぬ間に自分の心を誤魔化して。
スガタにとってそれは、ささやか、かつ、精一杯の抵抗だった。
「よう」
背後から声をかけられて、スガタは急いで振り向いた。海からの風に赤毛を踊らせて、タクトが笑いかけている。
「まさかだけど泳ぐつもり?」
「――わけないだろ」
スガタは口元に笑みを乗せたが、彼の目はタクトを見ていなかった。
「ワコは?一緒じゃないのか」
タクトの声でワコの名を聞く時、スガタの胸は変な具合に揺さぶられる。
「――ああ」
低い声でスガタは答えた。答えを返す前に短い沈黙が挟まれたことにタクトは気付いてしまっただろうか。
「あ、あれか。今頃は皆水の入り江で禊の時間か」
タクトはそう言うと、靴と靴下を脱ぎ棄てた。足首までじゃぶじゃぶ水に浸かってスガタのすぐ横に立ち、遠い沖合いに目を向ける。
「な、おまえ見たことあるのか?ワコが禊をしているところ」
顔をまっすぐ前に向けたまま、タクトはそう訊いてきた。
「いや、ない。禊は神聖な儀式だから人の目に触れてはならないんだ」
「ふーん……なんか白い着物みたいの着て海に入るんだよな、禊って?」
「海に入るときは白装束は脱がなくてはならないんだ、たとえ冬でも」
もっともこの島は冬でもそれほど寒いわけじゃないけどね、と続けた言葉をタクトが聞いていたとは思えない。
「脱ぐってことは――ハダカで……?」
内緒話をする時みたいにタクトは小声で言葉を重ねてきたのだから。
「神聖な儀式を、おまえってヤツは――――」
すぐさまスガタが突っ込もうとしていると、反対にタクトにさえぎられてしまった。
「おまえもやるのか?」
「何を?」
「だから、禊を」
突拍子もない質問にスガタは目を見開いた。
天然そのもの、という顔がこちらを覗き込む。
「スガタも禊的な何かをやったりするわけなのか?」
「なんで、そんなこと――おまえは思いついたんだ?」
目を見張りタクトを見やれば、彼の視線はすいーっと泳ぐ。
「いや、なんでって、そのぉ、なんとなくだけど……稽古の時におまえが着てる白い袴とか……それから、風呂に入ってる時のおまえを見た時とかさ……なんだか禊っぽいなあって……」
人差し指で鼻のあたまをカリっと掻きながら、タクトは照れくさそうな笑顔をそらしてしまった。
「なんだ、それは」
わずかに色づいたタクトの横顔を見てスガタは笑った。自分の頬に血が昇っていることに、動揺させられながら。
鉄壁のポーカーフェースさえ崩してしまう屈託ない笑顔。こいつはやっぱりただもんじゃない。
ふいにタクトはこちらを振り向いた。
「泳ごうぜ」
そう言って彼はスガタの手をぎゅっとつかむ。
「えっ?泳ぐって――?」
冗談だろ、といったようにスガタが目をぱちぱちさせていると、タクトの手が打ち寄せる波みたいにからだにまとわりついてきた。
「泳ぎたいと思った時が泳ぐべきナイスタイミング――だろ?」
タクトは上着を脱いで砂の上に放り投げると、スガタの手を取った。同じく上着を脱いだスガタは、タクトに促されるまま海の中に入っていく。シャツとズボンを着けたままで。引く波に身を任せるように。
ふたりはそうやって、長いこと波間でふざけっこを続けた。ちいさな子供みたいに、おもいきり水しぶきを上げながら。
もちろんここは天国に一番近い島じゃない。
かといって地獄に近いってわけでもないのかもしれない。
はじける水しぶきが眩しくて、スガタはわずかに目を細めた。
この島と、それから自分を救うためのきっかけ。
それは案外近い場所にあるのかもしれない。
continue―
作品名:Freeze Frame 作家名:うきぐもさなぎ