The birth
列車の中には俺の他に誰もいなかった。車内は驚くほどに静かだった。隣の車両も、反対隣の車両も、がらんとして人の気配を感じない。非現実的な光景だと思った。なぜ誰も乗っていないのかと考えて、そうして、そもそも俺はこんな列車に乗った覚えがないと気が付いた。
窓の外を、夜が過ぎていく。星がやけに近く感じた。タタン、タタンという音と共に、列車は進み、それに伴って窓の外の星を通り過ぎていく。星の横を通り過ぎるなんておかしな感覚だ。まるで夜の中を走っているようだ、と思った。
タタン。と、一際大きく列車が揺れた。突然のことに、俺は座席に座ったままバランスを崩してしまった。横向きに倒れる形でやわらかい座席に手をついて、そうしてすぐに慌てて体勢を立て直しながら、窓の外を見た。すでに列車は、何事もなかったかのようにタタン、タタンと一定の速度を保って進んでいた。星と星の間を抜けるように。
いよいよこれはただ事でない状況だという実感が湧いてきた。窓の外をじっくり見てみて確信したが、明らかに列車は夜空の中を走っている。いや、飛んでいるというのか。レールは宙に浮いて空を貫くようにまっすぐに上に向かって伸びている。一体俺はどこに連れて行かれるというのか。ありえない状況に一人放り込まれて、胃の奥をちくちくと不安が刺すのを感じた。酔いそうだ。なんだこれ、きもちわるい。
すこし落ち着こうと窓の外から視線をそらして、まっすぐ前を向く形で座席に座りなおした。そうして目を閉じて、大きく息を吸って、吐いて、を多めに八回繰り返す。落ち着け、大丈夫、と自分に言い聞かせながら、ゆっくりと瞳を開ける……と、目の前にさらに驚愕する光景が待っていた。
向かいの座席に、緑川が座っていた。
「……」
「……」
緑川はきょとんと目を丸くして、俺をじっと見つめていた。ついさっきまで、確かにそこは空席だったはずだ。誰かが近づいてきたような足音も聞こえなかった。だけど、確かに今俺の向かいには人が座っていて、しかもそれはまぎれもなく緑川本人だ。
俺は、あまりのことにしばらく口を開くことも出来ず、ただじっと緑川の丸い瞳を見つめた。緑川も無言でこちらを見つめている。沈黙したまま見つめあうこと、約八秒。何か話さねばと、考えて、考えて、捻り出した言葉は、
「……ひさしぶり」
「ひさしぶり」
なんて、なんとも暢気な挨拶になってしまった。
「元気だった?」
と、緑川が訊いてきた。楽しそうに笑顔を作って、無邪気な仕草で首を横に傾けた。その様子を見て、ようやく俺は、ああ、本当に緑川だ、と思った。こうして面と向かって話すのは、ひどく懐かしく感じてしまう。
「元気だったよ」
「そう、よかった」
緑川が言った。電車の揺れるのと合わせて、ゆらゆらと足を揺らしている。緑川はそれ以上話を続けずに、窓の外に目をやった。俺は会話を続けようとして、
「緑川は……」
と言ってはみたものの、その先に続ける言葉に迷ってしまって、ほんの少し逡巡した後、
「ちょっと雰囲気変わったね」
とだけ言った。どうしてそう感じたのか自分でもわからなかった。
俺の言葉に、緑川は一瞬不思議そうに首をかしげてから、ニッと口角を上げて笑った。
「そりゃあそうだよ。だってすごくひさしぶりに会ったじゃん。男子三日会わざれば……」
「刮目して見よ?」
「正解」
ふふ、と緑川は今度は口角だけでなく顔を笑みでいっぱいにした。星がはじけるみたいな笑い方を、ときどき緑川はする。
列車は夜の中を止まることなく進んでいった。緑川は、ときどき大きな星が横を通り過ぎると顔を輝かせたり、またときどき途方もなく寂しそうな目で二つ並んだ星座を眺めたりして、ずっと窓の外を見ていた。
「ねえ、この列車、どこに行くのかな」
ずっと疑問に思っていたことを、俺は思い切って口に出してみた。
「さあ、わからないけど……」
緑川の目は窓の外に向けられていた。そのとき、窓の外を、星が一粒光って落ちた。緑川の瞳が揺れる。
緑川の目は、あの星のように心もとなく、儚い宝石のようだとときどき思う。落ちて、流れて、消えてしまいそうだ。そんなことを考えていると、唐突に、昔読んだ小説のことを思い出した。ふと、いやな予感が頭をよぎる。
「ねえ、緑川はさ」
「ん?」
「その……死んでないよね?」
きょとん、と丸くなった緑川の瞳が、今度は俺に向けられる。
一瞬の沈黙。そして、ふ、と緑川が笑いをこぼした。
「あははは! 何それ、ヒロト失礼!」
「や、だって、昔こういう話を本で読んだなと思って……」
「フィクションと一緒にしないでよ。俺もヒロトもちゃんと生きてるから安心して」
けらけらとまだ笑いを抑えられない様子で、緑川はそう言った。笑いすぎたせいか目尻にうっすら涙がにじんでいる。
「ちゃんと生きてるよ」
もう一度、緑川が言った。
「……現実で」
その言葉に、俺は、ああなるほど。と、やけに納得して、
「やっぱりこれは夢?」
「だろうね」
「そうか……じゃあやっぱりフィクションじゃん」
「あはは、それとはちょっとちがうよ」
「ふうん」