選ばれなかった未来
レッドスプライト号に帰還した隊員をクルー達は「ああヒトナリ、お帰り」「お疲れー」と労いの言葉で迎えた。
彼らは頭からつま先まで、全身をデモニカスーツで覆われた機動班クルーを一瞥してタダノヒトナリだと正確に見抜いた。
彼のスーツはいつも滴るほど血に濡れていたからだった。
撥水に優れたデモニカスーツは内側から流れない限り、土砂や血液といった外的な汚れは浸み込まず全て弾く。
汚れの殆どは帰還する道中で落ちていくのに、彼のスーツはいつだって酷く汚れていた。
返り血が落ち切る前に次の敵を斬殺するからだ。
どれほど浴びればそうやって足元に血だまりができるのか。
デントには想像もつかない。
「大丈夫かよ」
ヒトナリはデモニカの頭部デバイスを外すと軽く頭を振った。
俯いたヒトナリの横顔には疲労が溜まっているのが見て取れた。落ち窪んだ目元には隈が目立ち、肉の薄い頬が更に削げて肌色が青黒い。
無理もない。シュバルツバース搭乗時には500以上いた機動班は今や100を切っている。
多くはシュバルツバースの過酷さに死に、僅かながら生き残っていたクルー達も二分した。
今や満足に活動できているのはヒトナリがいるチームのみだ。しかも現在、最も強力な悪魔を召喚できるのは彼だ。
これからますます厳しさを増していくだろう戦局をクリアできるかは、ほぼ彼にかかっている。負担はますます重く、彼に圧し掛かっていくばかりだろう。
「なぁイハル、少しは休めよ。お前ひでぇ顔してるぞ」
機動班専用のロッカールームでスーツを脱き始めた背にデントは声をかけた。
返事は無かった。ヒトナリはただ、ちらりと一瞥をくれただけで再び着脱作業に戻る。
分厚いスーツの下から現れた背中は以前よりずっと厚みを増している。切り揃えた襟足から大量の汗が滴り落ちて、黒いインナーを更に濃くしていた。
「なあ、」
「足りない」
ぼつりと低い呟きがデントの言葉を遮った。
ヒトナリは専用乾燥機にデモニカスーツを叩き込むと、そのまま機械的な流れでスイッチを押した。ゴゥン、と重い唸りを上げてファンが回りだす。
黒いインナー姿のヒトナリはデントに背を向けたまま、「足りないんだ、まだ」と繰り返した。
「足りない、って…何が」
「力だ」
そこで漸くヒトナリは振り向いた。薄く、笑みを刷いていた。
穏やかな微笑だった、けれどもその眼を見てデントはぞっと怖気が走った。
その眼は異様な光を宿していた。どろりと煮え滾ったオレンジの光だった。
それは丁度、熔鉱炉で融かされる鉄の色に似ている。地獄のような熱さで煮える妄執が鳶色の瞳の奥に燈っている。
どれほどの憎悪と情欲を煮詰めたらこんな目付きをするようになるのか。凡その人間が持つに至らない狂気が目の前にあった。
「天使どもを殲滅する。あの偽善者どもを駆逐する。人類の種を摘み取る害悪どもの、一切合財を容赦しない認知しない諒承しない。
奴らは生命を侮辱した。生けとし生けるもの全ての命を侮辱した。管理だと?秩序だと?一律だと?統一された思考?
誰かの意思で働き、誰かの加護で制限され、誰かの益の為に奉仕させられるだと?それが争いの無い美しい世界だと?
ふざけるな。お前らのエルサレムなど焼き払う。俺が焼き払う。ヤハウェの尻に口付けた卑しき隷属が、いつまでも高みにいられると思うなよ。
好きなようにはさせない。奴らの望む創世などさせるものか。
その羽根を毟り取って地の底に叩き込んでやる。その為の力が要る。
もっともっともっと沢山の悪魔が、もっともっともっと強大な力が要る。世界を埋め尽くすほどの」
イハルは薄く刷かせた微笑のまま一気に語り終えると、狂気の眼を一層細めてデントに言った。
「ありがとう、デント。心配してくれて。けれどそれには及ばない」とヒトナリはゆっくり頭を振った。
微笑は穏やかなままだった。デントの友情と心配をこの上なく喜ばしいと表現した上で、彼はそれを緩やかに拒絶した。
「俺には仲魔がいる。俺には愛するものがいる。俺にはやるべきことがある。だから、倒れない。俺は決して斃れない。約束の日まで。
…でもそうだな。デントの言うとおり、少し休息が必要かもしれない。シャワーでも浴びて、少し眠るとするよ。ありがとう。じゃあ」
デントの肩をそっと叩いて、ヒトナリは去って行った。
取り残されて一人きりになって、デントの膝から力が抜ける。其の侭崩れ折る様にへたり込む。
叩かれた肩、その感触をなぞるように自らの手を置いた。彼の手は温かく優しかった。
鍛錬を繰り返し厚くなった掌。それは間違いなく誰かを助ける為に磨かれて来た。行うのは人殺しでも、破壊でも。
それでも、きっと良くなる未来を夢見ていた筈なのに。
震えが腹の奥から込み上げて来る。
確信は恐れと悲しみを伴い、揺るぎない1つの事実を突きつけてきた。
大抵の地獄なら、此処で見た。このシュバルツバースで経験した。
けれども、こんなものは知らない。こんなにも恐ろしい、こんなにも美しい狂気は知らない。
(なんてこった。ヒトナリ、お前、お前は)
分岐点はあそこだったのかもしれない。デントには覚えがある。
あれはヒメネスが悪魔と合体し、人を殺して帰ってきた時だ。
ジャック部隊は悪魔を捕らえては身体をパーツ別に解体し、組み合わせることでより強い悪魔の兵隊を造ろうとしていたらしい。
悪魔に情を抱いていたヒメネスは彼らの行いが許せず、単身乗り込んでいったのだが逆に捕らえられた。
その時、「人間と悪魔を組み合わせたらどうなるか」―――そんな実験が実行されたのだという。
ヒメネスを救出したのはヒトナリだった。
デントが彼らを迎えたとき、ヒメネスは完全にヒトでなくなっていた。理性はあった、意思の疎通も問題ない。
けれども外見はヒトの名残を留めていても、最早ヒトでなかった。
褐色の膚に焼鏝の如く浮かぶカバラ。右の顔面はヒメネスが愛した悪魔の顔になってた。
赤くなめした革の様な光沢を持つ其れは伽藍の穴が穿たれて、其処から這出る鈍色の嗤い。
背から生えた黒い翼は大きく、けれども散り散りに千切られているので飛べはしまい。
あぁ悪魔となっても人は矢張り飛べないままかと過ぎった思いは現実逃避の他何者でもきっとなかっただろう。
変わり果てたヒメネスの傍らに彼はそっと佇んでいた。
精密検査を行う為に医務室へ向かったヒメネスを見送った後、デントはヒトナリに声をかけたのだ。
(そうだ。あの時も俺は「大丈夫かよ」と言ったんだ)
ヒトナリはあの時もデモニカの頭部デバイスを外して、ゆっくり首を振った。
そしてにこりと微笑んで、「だいじょうぶだよ」と言った。
「だいじょうぶだよ。ヒメネスはだいじょうぶ。だって、俺がやったんだから」
そしてその後、彼はジャック部隊を皆殺しにした。
デントは蹲り額を押えながら、ある事を考えていた。
もう戻れない。誰も彼もが、もう元には戻れない。矢は放たれてしまった。人類に向けられた矢先はもう翻らない。
運命を握るのはいつだって強い者だ。残るべきが残り、死すべきは死す。
最後の最後、赤茶けた大地に風が吹く荒野に佇む、たった一人がこれから先を決めるのだ。
彼らは頭からつま先まで、全身をデモニカスーツで覆われた機動班クルーを一瞥してタダノヒトナリだと正確に見抜いた。
彼のスーツはいつも滴るほど血に濡れていたからだった。
撥水に優れたデモニカスーツは内側から流れない限り、土砂や血液といった外的な汚れは浸み込まず全て弾く。
汚れの殆どは帰還する道中で落ちていくのに、彼のスーツはいつだって酷く汚れていた。
返り血が落ち切る前に次の敵を斬殺するからだ。
どれほど浴びればそうやって足元に血だまりができるのか。
デントには想像もつかない。
「大丈夫かよ」
ヒトナリはデモニカの頭部デバイスを外すと軽く頭を振った。
俯いたヒトナリの横顔には疲労が溜まっているのが見て取れた。落ち窪んだ目元には隈が目立ち、肉の薄い頬が更に削げて肌色が青黒い。
無理もない。シュバルツバース搭乗時には500以上いた機動班は今や100を切っている。
多くはシュバルツバースの過酷さに死に、僅かながら生き残っていたクルー達も二分した。
今や満足に活動できているのはヒトナリがいるチームのみだ。しかも現在、最も強力な悪魔を召喚できるのは彼だ。
これからますます厳しさを増していくだろう戦局をクリアできるかは、ほぼ彼にかかっている。負担はますます重く、彼に圧し掛かっていくばかりだろう。
「なぁイハル、少しは休めよ。お前ひでぇ顔してるぞ」
機動班専用のロッカールームでスーツを脱き始めた背にデントは声をかけた。
返事は無かった。ヒトナリはただ、ちらりと一瞥をくれただけで再び着脱作業に戻る。
分厚いスーツの下から現れた背中は以前よりずっと厚みを増している。切り揃えた襟足から大量の汗が滴り落ちて、黒いインナーを更に濃くしていた。
「なあ、」
「足りない」
ぼつりと低い呟きがデントの言葉を遮った。
ヒトナリは専用乾燥機にデモニカスーツを叩き込むと、そのまま機械的な流れでスイッチを押した。ゴゥン、と重い唸りを上げてファンが回りだす。
黒いインナー姿のヒトナリはデントに背を向けたまま、「足りないんだ、まだ」と繰り返した。
「足りない、って…何が」
「力だ」
そこで漸くヒトナリは振り向いた。薄く、笑みを刷いていた。
穏やかな微笑だった、けれどもその眼を見てデントはぞっと怖気が走った。
その眼は異様な光を宿していた。どろりと煮え滾ったオレンジの光だった。
それは丁度、熔鉱炉で融かされる鉄の色に似ている。地獄のような熱さで煮える妄執が鳶色の瞳の奥に燈っている。
どれほどの憎悪と情欲を煮詰めたらこんな目付きをするようになるのか。凡その人間が持つに至らない狂気が目の前にあった。
「天使どもを殲滅する。あの偽善者どもを駆逐する。人類の種を摘み取る害悪どもの、一切合財を容赦しない認知しない諒承しない。
奴らは生命を侮辱した。生けとし生けるもの全ての命を侮辱した。管理だと?秩序だと?一律だと?統一された思考?
誰かの意思で働き、誰かの加護で制限され、誰かの益の為に奉仕させられるだと?それが争いの無い美しい世界だと?
ふざけるな。お前らのエルサレムなど焼き払う。俺が焼き払う。ヤハウェの尻に口付けた卑しき隷属が、いつまでも高みにいられると思うなよ。
好きなようにはさせない。奴らの望む創世などさせるものか。
その羽根を毟り取って地の底に叩き込んでやる。その為の力が要る。
もっともっともっと沢山の悪魔が、もっともっともっと強大な力が要る。世界を埋め尽くすほどの」
イハルは薄く刷かせた微笑のまま一気に語り終えると、狂気の眼を一層細めてデントに言った。
「ありがとう、デント。心配してくれて。けれどそれには及ばない」とヒトナリはゆっくり頭を振った。
微笑は穏やかなままだった。デントの友情と心配をこの上なく喜ばしいと表現した上で、彼はそれを緩やかに拒絶した。
「俺には仲魔がいる。俺には愛するものがいる。俺にはやるべきことがある。だから、倒れない。俺は決して斃れない。約束の日まで。
…でもそうだな。デントの言うとおり、少し休息が必要かもしれない。シャワーでも浴びて、少し眠るとするよ。ありがとう。じゃあ」
デントの肩をそっと叩いて、ヒトナリは去って行った。
取り残されて一人きりになって、デントの膝から力が抜ける。其の侭崩れ折る様にへたり込む。
叩かれた肩、その感触をなぞるように自らの手を置いた。彼の手は温かく優しかった。
鍛錬を繰り返し厚くなった掌。それは間違いなく誰かを助ける為に磨かれて来た。行うのは人殺しでも、破壊でも。
それでも、きっと良くなる未来を夢見ていた筈なのに。
震えが腹の奥から込み上げて来る。
確信は恐れと悲しみを伴い、揺るぎない1つの事実を突きつけてきた。
大抵の地獄なら、此処で見た。このシュバルツバースで経験した。
けれども、こんなものは知らない。こんなにも恐ろしい、こんなにも美しい狂気は知らない。
(なんてこった。ヒトナリ、お前、お前は)
分岐点はあそこだったのかもしれない。デントには覚えがある。
あれはヒメネスが悪魔と合体し、人を殺して帰ってきた時だ。
ジャック部隊は悪魔を捕らえては身体をパーツ別に解体し、組み合わせることでより強い悪魔の兵隊を造ろうとしていたらしい。
悪魔に情を抱いていたヒメネスは彼らの行いが許せず、単身乗り込んでいったのだが逆に捕らえられた。
その時、「人間と悪魔を組み合わせたらどうなるか」―――そんな実験が実行されたのだという。
ヒメネスを救出したのはヒトナリだった。
デントが彼らを迎えたとき、ヒメネスは完全にヒトでなくなっていた。理性はあった、意思の疎通も問題ない。
けれども外見はヒトの名残を留めていても、最早ヒトでなかった。
褐色の膚に焼鏝の如く浮かぶカバラ。右の顔面はヒメネスが愛した悪魔の顔になってた。
赤くなめした革の様な光沢を持つ其れは伽藍の穴が穿たれて、其処から這出る鈍色の嗤い。
背から生えた黒い翼は大きく、けれども散り散りに千切られているので飛べはしまい。
あぁ悪魔となっても人は矢張り飛べないままかと過ぎった思いは現実逃避の他何者でもきっとなかっただろう。
変わり果てたヒメネスの傍らに彼はそっと佇んでいた。
精密検査を行う為に医務室へ向かったヒメネスを見送った後、デントはヒトナリに声をかけたのだ。
(そうだ。あの時も俺は「大丈夫かよ」と言ったんだ)
ヒトナリはあの時もデモニカの頭部デバイスを外して、ゆっくり首を振った。
そしてにこりと微笑んで、「だいじょうぶだよ」と言った。
「だいじょうぶだよ。ヒメネスはだいじょうぶ。だって、俺がやったんだから」
そしてその後、彼はジャック部隊を皆殺しにした。
デントは蹲り額を押えながら、ある事を考えていた。
もう戻れない。誰も彼もが、もう元には戻れない。矢は放たれてしまった。人類に向けられた矢先はもう翻らない。
運命を握るのはいつだって強い者だ。残るべきが残り、死すべきは死す。
最後の最後、赤茶けた大地に風が吹く荒野に佇む、たった一人がこれから先を決めるのだ。