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そらいひる
そらいひる
novelistID. 22276
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無貌に紅差す

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けれども底果てない、清んでいるのに濁る黒目は何も読めない。飾り立てた今の久秀から窺い知れる術は無い。それは慶次自ら失った。

白い指先が襟元を押し返す。柔らかい力に従い、慶次は腕を緩めた。少しばかり空いた二人の距離を、今度は久秀が縮めた。
押した指先を襟元に絡めて手綱を扱うように引く。互いの顔がぶつける勢いで唇を合わせる。
慶次は息を呑んだ。久秀は慶次にべっとりと紅を写すように押し付けながら、眼だけで笑って見せる。飾羽の睫毛が慶次の目元を擽った。
驚いて緩んだ隙間から舌が這入り込もうとしてくる。ずっと低い温度の舌先が前歯を舐めて来て、慶次は慌てて久秀を引き剥がした。
掴んだ肩は細い。そうして離せずにいる。眼も手も、引き剥がしたのに突き放せない。久秀は少し紅の剥げた唇を歪めて囁いた。

「どうした。私を好きにしても構わないよ」

緩慢な仕草で久秀が腕を持ち上げる。手の甲で肩を掴む慶次の腕をそっと押して戒めを解かせると、白い指先を己の頬に当てた。
無表情の頬を吊り上げ笑っている。慶次はぞくりと震えた。官能でなく畏れで震えた。

「この私は卿が創り上げた。卿が求め卿が描いた、かくあれかしと卿が望み整えた形だ。ならば好きにするといい。壊すも割くも犯すも殺すも、全て卿の望むとおりにすればいい」

美しさを求めて慶次は久秀を塗った。美しさとは、即ち自身の理想だ。自らの理想を追い求め形にしていく工程で人は己を見出していく。
自身が何を望み何を成し遂げたいか何を思うか。表現する者は須く己を形にする作業を行っている。
研ぎ澄まして磨き抜き、奥底を探りながら創って行く。
認められたいと、どうすればもっと美しく整えられるかと、誰かに批評を求めるのは神に赦しを乞うのにも似ている。

慶次も例外でなかった。慶次は確かに、久秀の顔に己の望みを投影した。
一心に画紙へ描き込む絵師の心持で久秀を彩った。其処に久秀の意思は無く、描かれる為の顔があるだけだった。
慶次は愕然とした。目の前にいる久秀に断罪されている。慶次の手によって美しく整えられた久秀は久秀でない。
松永弾正久秀その人ではあるが、慶次が求むる久秀では無い。
静かに微笑むその顔は雄雄しくもあり手弱かでもある。若々しい青年のようで妙齢の女のようでもある。理知深い老人のようで幼気な童子のようでもある。
久秀のようで久秀のようではない。男でなく女でもない。そのどちらでもない者は、では何者であるというだろう。

―――果たして、誰でもない。

慶次は久秀を掻き抱いた。
屹度苦しいだろうに、久秀は僅かに息を詰めただけで何とも言わなかった。
慶次はもう一度久秀を呼び、耳元で「ごめん」と囁いた。

「ごめん、ごめんね、松永さん。傷つけるつもりじゃなかったんだ」
「傷つける…?卿が、私を?…ふ、」

息を吐くように久秀が小さく笑う。何を傷つけたというのかと嘲笑う、その裏に諦観が潜んでいた。
苦しさに息が止まりそうだった。
傷つけた、と自身が言葉にして初めて慶次は自覚した。

きずつけてしまった、きずつけてしまった。
慶次は美しさを求めた。ただそれだけだ。久秀を好きに弄るとか、そんなのではない。ただただ、己の手で松永久秀という形を捕まえたかった。
彼を想うのは当て所ない厖大な虚無の前に立ち竦むことに等しい。
一人ぼっちでいる彼を抱き締めたいと思うのに形が分からない。
何にも満たされず欲しがれば欲しがるほど失う彼を満たしてやりたいと願うのに、器の形が分からない。

線を重ねて色を塗って空白を埋めれば、形になるかもしれないと思った。
茫洋の欲望と失望から彼を掬いだす手がかりになるかもしれないと思ったのだ。

(だけど駄目だった。線を重ねれば重ねるほど、色を塗れば塗るほど、)
(本当のあなたが遠のいていく)

出来上がったのは美しい、空回りした理想だけだった。
慶次は裁かれた。本当を理解しようとして其の実、最も本当から遠ざかった。
形にしようと求めた手は望んだ形を壊してしまった。
そうして慶次は真実を知った。

―――彼は果たして、何者でもない。

名のある。顔のある。姿のある。けれども何者でもない。彼は彼自身さえなかった。
鏡に映るものが現実であっても見るものにとってそれが真実とは限らないように、彼は見るものによって姿を変える。
ある者には悪党に、ある者には娼婦に、ある者には同志に、ある者には神のように。

そしてその事を誰よりも知り、誰よりも絶望しているのは、他ならない。
慶次は今更に、自分の望みのために、その真実を彼に突きつけた。

のろのろと腕を上げて、久秀の指が慶次の背を撫でる。
そっと抱擁し返す柔らかい力に強い力で答えた。

「卿が、謝ることなど何も無いよ。私は傷付いてなどいない、何も。傷付きようが無いのだから」
囁きは優しかった。優しいと感じたのは慶次の心だ。
色の無い、久秀の低い声にそうした意図があったのかは計りようがない。
慶次が久秀でない限り、二人が一体になれぬ限り。
慶次は鼻先を項に埋めて奥歯を噛んだ。涙が出そうだった。誤魔化すように首を振って慶次は囁いた。

「傷つけちゃって、ごめんなさい。だけど、俺は松永さんとこうしていたいよ。
―――いっそう寂しくても、松永さんとこうしていたいよ」

慶次の声は震えていた。
久秀は宥めるように慶次の背を掌で撫でていた。傷を負ったその手は鏡の欠片が埋まって血を流している。
確かに生きている、と久秀は確認する。
伝わる慶次の温もりを感じている、血を流す手は痛む。肉体は確かに、此処にあって生きている。

それだけのことだ。生きる、それだけのことだ。
けれども人は探す。受けた命に意味を求め、生きる体に解を求める。
美しさという理想を研ぎ澄まし、生きた証を残して逝こうと足掻いている。
屍を残さないと決めている久秀にとっては生は生以上の意味を持たない。
生きる、死ぬまで生きる。それだけのことだ。
自身が誰であるか何が望みであるかなど、どうでもよい瑣末な問題だ。慶次に化粧をさせてみたのも戯れに過ぎない。
逆さにすれば水は落ちる、それを知っていて敢えてやった。
それだけだ。

(けれども、彼の中の私は美しかった)
(ひどく、ひどく、うつくしかった)
作品名:無貌に紅差す 作家名:そらいひる