千秋一夜
小田原の山脈を辿って風が舞い込んだ。
森の中、枯れ葉を舞い上げて吹き抜ける風に馬上の氏政は思わず目を瞑る。
涼しい風の中、金木犀の香りが混じる。秋の風になってきたと氏政は目を開け、好ましさに微笑んだ。
柔らかい秋の風に吹かれて、もうじき山々も色づくだろう。銀杏の黄、紅葉の赤、椚の橙。
小田原は春の桜が最も美しいが、氏政は温かい優しい色の秋が好きだった。
今年もきっと実りが多うなりましょうなぁと空を仰ぎながら家臣の安気な声がする。
北条は豊穣―――。
温かな風と海と山と、そして人で作る里は光を浴びながら豊かに実る。民草の笑顔を思い浮かべ、氏政はこの小田原を守れるだけ守ろうと心に決めていた。
祖父ほどの革新も、父ほどの覇気も持たずに生まれて来たのなら、せめて誰も泣かずにいられる国づくりをしようと。
戦乱の世でそれは決して容易いことではなかったけれど、信頼し合える兄弟たちと賢い家臣と頼れる忍びたちが側で支えてくれるから屹度だいじょうぶだと氏政は信じている。
「わっぱ、何をしておるかッ」
家臣の鋭い誰何に氏政は我に返った。
唐突にそれは姿を現した。木々の狭間、森の一部のようにこどもが佇んでいる。
何時の間に近寄ってきたのだろう。まるで唐突に現れたこどもは山の精かあやかしのようだ。
咄嗟に鞘を払った家臣らを押し留め、氏政はこどもを注意深く診る。
赤い髪をした痩せたこどもだ。ざんばらの髪は紅葉の様に赤く、鼻から上を隠している。
襤褸の着物を身体に括り付けるように着て、一見里のこどものようだが佇む姿に隙がない。
山の清涼な空気にも似た気配を纏って、馬上の氏政をじっと見ている。ほぅ、と氏政は相好を崩した。
「…刀を納めよ。そう、童に刃を向けるものでないわ」
そう命じると、氏政は馬からひょいと降りた。氏政様ッと途端に慌て出す家臣を尻目に、氏政はさっさとこどもに近寄っていく。
小さな痩せっぽちのこどもは未だ無遠慮な視線を投げ掛けてくる。氏政は好ましさに微笑んで、枯れ葉に膝を付いてこどもに目線を合わせた。
「お主、風魔の子じゃな」
氏政の問い掛けに、こどもは素直に頷いた。
後ろで驚く家臣の声がした。思わず噴出すと、こどもは不思議そうに首を傾げた。
なんでもないと手を振ると、こどもの首が手の動きを追うように動いた。氏政はふふと笑った。
「そうかそうか。わしは北条氏政じゃ」
氏政は躊躇いなく、こどもの頭に手を載せた。赤い髪は少し固かった。それを掌で掻き混ぜるように撫でてやる。
振り払われるかと思われたが、こどもは大人しく頭を撫でられている。というより驚いている様子だった。息を詰めて固まっている。
馴れぬ野生の獣を見るようで、氏政は益々笑みを深くした。
頭から手を離すと、漸くこどもは息を解いた。
そんなに緊張せずともよかろうに、と氏政は可笑しかった。
こどもは俯いて、なにやらもじもじしている。よく見れば後ろ手に何かを持っているようだった。
家臣らが警戒したのはこのためだったのかもしれないと今更ながら氏政は察した。全く腹立たしいことだが、こどもを暗殺に遣わす輩は存外多いのだ。
けれども氏政は安気に「どうした?」と問い掛けた。
目の前の子は風魔の子だ。決して自分に害は為さないし、まだまだ幼いこどもなのだ。
氏政は吾子にしてやるように顔を覗きこみ、にこりと笑った。
「どうしたのじゃ、ん? 何かあるなら言うてみぃ」
氏政の問い掛けに、いよいよこどもは意を決して顔をあげた。
後ろ手からぐいと突き出された両手にあるものを見て、氏政は目を瞬かせた。
小さなこどもの手の中には、彼岸花が一輪咲いている。
手折ってから暫く経っているのか、花弁の赤い色味が僅かに褪せている。
温かいこどもの手でずっと握られていた彼岸花は少し萎れ掛けている。
氏政はこどもに目を遣る。こどもは花を突きつけたまま、顔を真っ赤にさせて俯いている。
それこそ、彼岸花にも負けない赤さで。
とうとう氏政は堪え切れずに声をあげて笑った。
どうしたのかといわんばかりに顔をあげたこどもの、赤い頭を軽く叩くように撫でてやる。何と可愛らしいのだろう。
嗚呼矢張り、こどもだ。
これはこどもだ、いつか風の悪魔になるのだとしても、何処にでもいる、ただのこどもだ。
「・・・・?」
「いやいや、なんでもない。なんでもないのじゃ。おお、綺麗じゃのう。有り難く貰っておくぞ」
氏政はこどもの手から伸びる茎をそっと摘んだ。すると、ぱっと手が放れて、こどもは身を翻した。
瞬く間にこどもは姿を消した。枯れ葉が舞い上がり、目を背けた僅かな合間に跡形も無く消えたのだ。
ひらひらと枯れ葉が宙を舞う。幼いとはいえ、流石は風魔の子というわけか。
氏政は土ぼこりを叩いて立ち上がると、家臣らの所へ戻った。家臣らは氏政の無事を一先ず喜んで、手にある花に目を遣り、不快そうに眉を顰めた。
けれども氏政は気にせずに嬉しげに笑い、あまつさえ匂いを嗅ぐように毒花を鼻先に近付ける。
「ふふ、この年になって花を貰うとは思わなんだわい」
「氏政様、しかしそれは彼岸花ですぞ。あの小僧、なんと不吉な花を寄越すのだ…」
「知ってやったのではあるまいて。あのこどもは、きっと此花が美しいと思うたのじゃろ。美しいと思うた花を、わしにくれたのじゃ。なんともやさしい、良い子ではないか」
氏政は遠く向こうの方を見る。
もうじき色づくだろう小田原の木々、そのどこか一本にあのこどもがいるような気がした。
「大切に、せねばならんの」
「は? その花をですか。火事になったらどうなさるのです」
「お主が消せば良いではないか」
氏政は笑いながら馬に乗り上げた。花を落さぬよう注意を払いながら。
手綱を引いて城へ向かう。ゆるゆると馬が歩くに任せて、氏政は手の花を暖かな心持で見詰め続けた。
うつくしいと思えるこころがあるのなら。
そうして、人をいとおしいと想えるこころがあるのなら。
いつか散り行き、枯れ果てるのだとしても。
季節が廻り、花が再び咲くように。
屹度、強く生きてゆけるのだろう。
(たとえ、ひとりきりでも)