明るい場所
翌日、アロイスは出かけたいところがあるのだと言い出した。
ところが天気はあいにくの雨模様で、葬儀にての演技に体力を使い果たしたのか青い顔をしている少年をクロードは不可解な思いでしばらく見つめた。勿論止めるつもりはなかったのだが、まさかここで死なれるのではなかろうかとは疑わずにいられなかった。人間の持つ脆さは悪魔には計り知れないものである。折角気に入った獲物なのだから、兎にも角にも気をつけるに越したことはない。
「明日では不可ませんか、」
「なにそれ、冗談で言ってる?」
「……いえ」
「気に入らないのならクロードは来なくてもいいよ。馬車は誰にでも出せるから」
「あなたさまはいまやトランシー家の当主なのですよ。出かけるのはけっこうですが、私もついてまいります」
それからは攻防らしい攻防もなくアロイスは炒り卵と炙ったベーコンとグリーンサラダの朝食を終え馬車が用意された。もっともクロードが少年からそれ以上の言葉を引き出そうとした試みはことごとく失敗に終わり、朝の時間が仄暗いなかで無為に過ぎて行き、アロイスはそのうち馬車の上り框に足をかけて、ふと動きを止めた。
ここでもう一悶着が起こったのだった。
「この服じゃあだめだな」
とアロイスが言い出したのである。
「もっと地味なのじゃなきゃ」
口をとがらせる彼が着ているのはクロードが手ずから先代伯爵の弔いのためのみに用意した逸品である。糊のきいたシャツ以外は黒ずくめの、しかしサスペンダーで吊すずぼんだけはアロイスがいつも履いているのと同じくふとももの半分をも隠さないほど短い丈のもので、こちらは膝より上をも隠す靴下は色こそ黒いものの、ふたつに挟まれた肌はいつも以上に美味そうに見えた。
「しかしこちらは喪服なのですから、今しばらくは、」
「これを俺に着せたクロードの心積もりなんてとっくに分かってるよ。こんなにずぼん丈の短い喪服がどこにあるのさ」
ならば何を着せるべきかを早速思案しはじめたクロードが黙ったのを言いくるめたとでも思ったのか、会心の笑みを浮かべたアロイスは今日はじめて頬に血の色を浮かび上がらせて屋敷のほうへと駆け戻っていった。
*
意外にも少年はかなり早く満足し、念のため庭仕事に使ってるシャベルも持ってきて、との指示のあと、運転役はハンナに言いつけてふたりは今度こそ馬車に乗り込んだ。腰かけたアロイスはシャベルを受け取り、自らの身長と同じくらいの長さをしたそれを大切そうに抱え込むと軽いため息を漏らした。
もっとも、今の装いが彼の意に沿うほど十分に地味だったわけではない。衣装箱をひっくり返したところでアロイスの望む類のものはなかったから、結局は唯一ワードローブにあった長ずぼんとシンプルなシャツの組み合わせで妥協したのである。
「それで、行き先のことだけど。……燃えた村は勿論覚えてるよね、クロード」
「ええ。ではそちらへ?」
「そんなところに用なんてないよ」
「はあ」
「村はずれにね、森の入り口があったんだ。ルカと俺はその近くの、放り捨てられた薪小屋を使ってた。その森の入り口へ」
「……かしこまりました」
つまり回想をあたために行くのだろうかとクロードはひとり合点した。息を吐いたアロイスは俯いたままでまたもや言葉のひとつも発しなくなり手持ち無沙汰に狭い窓から空を探す。天気は追憶にはあまり相応しくない類だと思われる、どこまでも晴れ渡った青色を見せている。思い返せば、少年が弟についてばかりは重い口をようよう開くのは闇の中に限られている気もする。だのに不意をつくようなかたちで目の前に転がってきた事実が嘘だと疑う余地も見当たらなかった。
まったく人間の感情というのは難儀なもので、しかしその味付けがなければ魂の口当たりは大きく変わってしまうというのだから悪魔にとっては難儀な世の中である。
(無論、それだけの価値があるのならばこちらとしてもやぶさかではないが)
「クロード?」
「はい」
「今、食べること考えてただろ」
「……はあ」
「やらしかった」
今日はそういうの、なしだからね。吐き捨てるように言ったあとでアロイスもまた窓の外に目をやる。
「晴れてるね」
「はい」
「明るいのは……気持ちいいよ」
小さな四角形からさしこむ光の棒の中を細かな埃が震えながら舞っているのを、どちらかと言えば闇に近いワゴンの中で少年は飽きもせずに見つめつづけていたのだということに今更のように気が付いた。
いとおしげに細められた青い瞳に、重たげな睫毛が影を落とす情景など呆れるほど見てきているのだけれど、それでもクロードは改めてアロイスに目を奪われた。今はほんの少しばかり開かれた唇が歪められ噛み締められ血を滲ませるとき、また一方でからからに乾いて割れてやはり血を滲ませるときと引き比べると、喉の渇きが収まった。どちらもクロードがかつてその手で引き出した感情の発露である。
ほどなくして深緑の輪郭が見えはじめたあと、馬車はすぐに森とのぎりぎりの境界線上に止められた。スコップを引きずるようにしてアロイスが早速飛び降りたのをあとから追うと、なぜか怪訝そうな目付きを向けられた。
「なに、まだなにか用?クロード」
「いえ」
「ならついてこないで。さっき言ったでしょ、今日はそういうの、なしだからって」
クロードも今度は戸惑わなかった。
「ついて行きますよ」
「クロード!」
「旦那さまの後ろ、1ヤードは離れた場所で歩きます。それでよろしいでしょう」
「……近い」
「では、2ヤードは置きましょう」
「ついてくんなって言ってるのが分からないの?!」
「旦那さま」
そうしてついに、アロイスがクロードから視線を逸らして。
(ふむ)
「……いいよ。分かったよもう」
「では」
「ついてくるんならせめてスコップは持って」
あんなにも奪われたくなさそうな素振りで抱え込んでいたスコップをクロードに向け力任せに押し付け(本当は投げつけたかったようだが、重さのせいでそれは出来なかったらしい)、ぷいっと先に顔を思い切り背けてからアロイスは森の中へと歩きはじめた。そのあとをのんびりと追いながらクロードは再び空を見上げた。
正午まであとすこし、という場所まで太陽はのぼっている。そういえば食料をなにも持ってこなかったことを今更思い出したものの、前を歩くアロイスは食事のことなど気にもしていないらしい。先程の埃を見るのと同じような目付きを保ったまま、今度は胸を張って早足で進んでいる。
森とはいうものの、付近にかつて村があった影響でひとの手が入っていた痕跡はいくつかあった。特に森の中を抜けるためかと思われる一本道は、村が焼けてからは手を入れる者もいないのだろう、その荒廃ぶりが逆にかつての様を思わせた。
一方アロイスが選んだのはときどき村人の道と交わったもののすべて獣道で、細いものの今も使われているらしい。動物の気配を読みながら慣れた様子でひょいひょい進んでいくのには否応なくかつての小汚い野良犬が想起された。清潔な服装を身にまとい、白い肌は磨きたてられ、ときどき差しいる陽光を反射して輝く金色の髪を後ろから眺めているとその例えはもう遙か遠いもののようにも感じられるのだけれど。
ところが天気はあいにくの雨模様で、葬儀にての演技に体力を使い果たしたのか青い顔をしている少年をクロードは不可解な思いでしばらく見つめた。勿論止めるつもりはなかったのだが、まさかここで死なれるのではなかろうかとは疑わずにいられなかった。人間の持つ脆さは悪魔には計り知れないものである。折角気に入った獲物なのだから、兎にも角にも気をつけるに越したことはない。
「明日では不可ませんか、」
「なにそれ、冗談で言ってる?」
「……いえ」
「気に入らないのならクロードは来なくてもいいよ。馬車は誰にでも出せるから」
「あなたさまはいまやトランシー家の当主なのですよ。出かけるのはけっこうですが、私もついてまいります」
それからは攻防らしい攻防もなくアロイスは炒り卵と炙ったベーコンとグリーンサラダの朝食を終え馬車が用意された。もっともクロードが少年からそれ以上の言葉を引き出そうとした試みはことごとく失敗に終わり、朝の時間が仄暗いなかで無為に過ぎて行き、アロイスはそのうち馬車の上り框に足をかけて、ふと動きを止めた。
ここでもう一悶着が起こったのだった。
「この服じゃあだめだな」
とアロイスが言い出したのである。
「もっと地味なのじゃなきゃ」
口をとがらせる彼が着ているのはクロードが手ずから先代伯爵の弔いのためのみに用意した逸品である。糊のきいたシャツ以外は黒ずくめの、しかしサスペンダーで吊すずぼんだけはアロイスがいつも履いているのと同じくふとももの半分をも隠さないほど短い丈のもので、こちらは膝より上をも隠す靴下は色こそ黒いものの、ふたつに挟まれた肌はいつも以上に美味そうに見えた。
「しかしこちらは喪服なのですから、今しばらくは、」
「これを俺に着せたクロードの心積もりなんてとっくに分かってるよ。こんなにずぼん丈の短い喪服がどこにあるのさ」
ならば何を着せるべきかを早速思案しはじめたクロードが黙ったのを言いくるめたとでも思ったのか、会心の笑みを浮かべたアロイスは今日はじめて頬に血の色を浮かび上がらせて屋敷のほうへと駆け戻っていった。
*
意外にも少年はかなり早く満足し、念のため庭仕事に使ってるシャベルも持ってきて、との指示のあと、運転役はハンナに言いつけてふたりは今度こそ馬車に乗り込んだ。腰かけたアロイスはシャベルを受け取り、自らの身長と同じくらいの長さをしたそれを大切そうに抱え込むと軽いため息を漏らした。
もっとも、今の装いが彼の意に沿うほど十分に地味だったわけではない。衣装箱をひっくり返したところでアロイスの望む類のものはなかったから、結局は唯一ワードローブにあった長ずぼんとシンプルなシャツの組み合わせで妥協したのである。
「それで、行き先のことだけど。……燃えた村は勿論覚えてるよね、クロード」
「ええ。ではそちらへ?」
「そんなところに用なんてないよ」
「はあ」
「村はずれにね、森の入り口があったんだ。ルカと俺はその近くの、放り捨てられた薪小屋を使ってた。その森の入り口へ」
「……かしこまりました」
つまり回想をあたために行くのだろうかとクロードはひとり合点した。息を吐いたアロイスは俯いたままでまたもや言葉のひとつも発しなくなり手持ち無沙汰に狭い窓から空を探す。天気は追憶にはあまり相応しくない類だと思われる、どこまでも晴れ渡った青色を見せている。思い返せば、少年が弟についてばかりは重い口をようよう開くのは闇の中に限られている気もする。だのに不意をつくようなかたちで目の前に転がってきた事実が嘘だと疑う余地も見当たらなかった。
まったく人間の感情というのは難儀なもので、しかしその味付けがなければ魂の口当たりは大きく変わってしまうというのだから悪魔にとっては難儀な世の中である。
(無論、それだけの価値があるのならばこちらとしてもやぶさかではないが)
「クロード?」
「はい」
「今、食べること考えてただろ」
「……はあ」
「やらしかった」
今日はそういうの、なしだからね。吐き捨てるように言ったあとでアロイスもまた窓の外に目をやる。
「晴れてるね」
「はい」
「明るいのは……気持ちいいよ」
小さな四角形からさしこむ光の棒の中を細かな埃が震えながら舞っているのを、どちらかと言えば闇に近いワゴンの中で少年は飽きもせずに見つめつづけていたのだということに今更のように気が付いた。
いとおしげに細められた青い瞳に、重たげな睫毛が影を落とす情景など呆れるほど見てきているのだけれど、それでもクロードは改めてアロイスに目を奪われた。今はほんの少しばかり開かれた唇が歪められ噛み締められ血を滲ませるとき、また一方でからからに乾いて割れてやはり血を滲ませるときと引き比べると、喉の渇きが収まった。どちらもクロードがかつてその手で引き出した感情の発露である。
ほどなくして深緑の輪郭が見えはじめたあと、馬車はすぐに森とのぎりぎりの境界線上に止められた。スコップを引きずるようにしてアロイスが早速飛び降りたのをあとから追うと、なぜか怪訝そうな目付きを向けられた。
「なに、まだなにか用?クロード」
「いえ」
「ならついてこないで。さっき言ったでしょ、今日はそういうの、なしだからって」
クロードも今度は戸惑わなかった。
「ついて行きますよ」
「クロード!」
「旦那さまの後ろ、1ヤードは離れた場所で歩きます。それでよろしいでしょう」
「……近い」
「では、2ヤードは置きましょう」
「ついてくんなって言ってるのが分からないの?!」
「旦那さま」
そうしてついに、アロイスがクロードから視線を逸らして。
(ふむ)
「……いいよ。分かったよもう」
「では」
「ついてくるんならせめてスコップは持って」
あんなにも奪われたくなさそうな素振りで抱え込んでいたスコップをクロードに向け力任せに押し付け(本当は投げつけたかったようだが、重さのせいでそれは出来なかったらしい)、ぷいっと先に顔を思い切り背けてからアロイスは森の中へと歩きはじめた。そのあとをのんびりと追いながらクロードは再び空を見上げた。
正午まであとすこし、という場所まで太陽はのぼっている。そういえば食料をなにも持ってこなかったことを今更思い出したものの、前を歩くアロイスは食事のことなど気にもしていないらしい。先程の埃を見るのと同じような目付きを保ったまま、今度は胸を張って早足で進んでいる。
森とはいうものの、付近にかつて村があった影響でひとの手が入っていた痕跡はいくつかあった。特に森の中を抜けるためかと思われる一本道は、村が焼けてからは手を入れる者もいないのだろう、その荒廃ぶりが逆にかつての様を思わせた。
一方アロイスが選んだのはときどき村人の道と交わったもののすべて獣道で、細いものの今も使われているらしい。動物の気配を読みながら慣れた様子でひょいひょい進んでいくのには否応なくかつての小汚い野良犬が想起された。清潔な服装を身にまとい、白い肌は磨きたてられ、ときどき差しいる陽光を反射して輝く金色の髪を後ろから眺めているとその例えはもう遙か遠いもののようにも感じられるのだけれど。