白い順列
「あちゃー……」
乃梨子の前には、物言わぬ閉じたシャッター。
小さな手書きの貼り紙は、この店が経営難で閉店したことを告げていた。不景気の波は、こんな小さな古本屋を、容赦なく押し流してしまったらしい。
仕方なく、乃梨子は歩き出した。
*
冬の始めの日曜日。乃梨子は、N駅に降り立った。新宿とK駅の中間ぐらいのこのあたりは、趣味のお店が非常に充実していることで有名だ。仏像自体のお店だったり、その関連の古本屋だったりが、数は多くないにせよ、存在している。
仏像鑑賞は、希に、ではあるが非常にお金のかかる趣味だ。普段から財布の紐は気持ち厳しめにしておかなくてはいけない。
だから、菫子さんの家に来てからは、都心に出向くほどお金がかからず、それでもそれなりに楽しめるこの界隈を訪れる機会が多くなったのだ。
北口を出て、アーケードを真っ直ぐに進むと、アーケードと繋がったような形で、雑居ビルに入っていくことになる。4階建てのビルの中には、また小さな店が軒を連ねており、さながら商店街を上に重ねたような感じになっている。
その最上階に、乃梨子がいつも訪れる本屋があったのだが。
「十一月一杯で閉店致しました
永らくのご愛顧ありがとうございました
店長」
店長と言えば、いつもカウンターで本に埋もれながら、本を読んでいたお爺さんのことだろう。
店がなくなって、彼はどうしているんだろう。せめて、元気にしてくれていれば良いんだけど。
そんなことを考えながら、歩を進める。
このビルの中には、各階に数十個の店が構えられているが、他に用のある店があまりない。
(ちょっと、方向性偏ってるよなあ)
乃梨子の右手のショーケースには、妙に素材の安っぽさを感じさせるドレスや、明らかに現実には存在しなそうな、珍妙なデザインの制服が飾られていた。いわゆるコスプレ用品だろう。
リリアンの制服を売ったらいくらぐらいになるんだろうな、なんて罰当たりなことを少しだけ考えた。
もちろん、やらないけど。
階段を探しながら、しばらく歩いて角を左に折れたところには、また別のショーケースがあった。その中には、真新しい人形達が、所狭しと肩を寄せ合っている。子供向けのおもちゃなんかに比べると、関節が動くようになっていたり、細かいディテールに拘ったり、随分と立派に造られている。
下に書かれた値札を、好奇心だけで見てみる。そのゼロの数を見て、世の中には物好きな人が……乃梨子自身も含めて、沢山居るんだなあと実感したのだった。
(ねえ……)
「ん?」
今、誰かに呼ばれたような。
背後を振り返ってみても、それらしき人影はない。
人通りがそれなりにあるので、実際何か危険があるというわけではないはずなんだけど。少しだけ、気味が悪くなった。
誰かに、見られている。
何だか、胸が苦しくなるような気分。
気がついたときには、人の存在を避けるようにして、その店の中に入っていた。魚が水面で酸素を求めるみたいに、それは今の乃梨子にとって自然なことのように感じられた。
(ねえ……)
(どうしたんだろう、私)
古い玩具を扱った小さな店の中には、誰も居なかった。生きている人間に関しては。
その代わりに、小さな命を吹き込まれた人形や縫いぐるみたちが、(ねえ……)乃梨子を優しく見つめているように思えた。
見ているのは、彼らだったんだろう。だけど、気味が悪いのはそれだけのせいじゃなくて。
(ねえ……)
さっきから、断続的に聞こえるこの声だ。
いや……声じゃない。音は、していないんだ。ただ、呼ばれているというだけの感覚。
(こういうの、信じない主義なんだけど)
感覚に従って、どこから呼ばれているのか探ろうと思った。それだけのことで、一体の人形と、「目が合った」。
真っ白な、フランス人形。
長い時間を重ねて、色が落ちてしまったのか、もともとそういう色なのか。年月を重ねて少しだけ荒れた肌も、フリルやレースをこれでもか、ってぐらいに着けたドレスも、一様に色を失ったみたいに、くすんだ白い色をしていた。
ふわーっとした拡がりのある髪も、雪原みたいに白くて。瞳の灰色だけが、彼女の色の全てだった。
まっすぐに見つめるその目線には、どこかで覚えがあるような気がした。だけど、その子細は、霧の中にあるみたいに掴めない。
もう一度、人形をゆっくりと眺めてみる。
なぜ、これが古い玩具の中でも、ひときわ目を引いたのか。その答えが、そこにあると信じて。
見れば見るほど、引き込まれていく感じ。そういう気持ちは、心を入れて作られた仏像を見たときに通じるものは少しある。
(何か、それとは違うんだよなあ)
華やかなドレスも、飾り付けるリボンも趣味じゃなかったはずなのは確かだけど、そういう違いじゃない。
良く見てみれば、最初に思ったほど、真っ白という白さでもない。結構な年数を重ねているみたいだし、当たり前といえば当たり前だ。
この人形が作られたときは、確かに真っ白だったのかもしれない。だけど、その時の人形を想像してみても、いまいち心を惹かれない。
その重ねた年月にこそ、意味があるということなんだろうか。
硝子玉の瞳が、灰色の中に居る乃梨子を映していた。
(意外と、可愛いんだ)
彼女の表情は、改めて見てみると、意外に親しみやすい造形をしていた。よく見ると瞳の下に泣きぼくろがあった。子供が後から書き加えたものだと思うけれど、そのお陰で顔立ちがむしろ柔らかい雰囲気になっている。
案外、西洋人形を真似て日本で作ったものだったりするのかもしれない。だけど、その中には確かに侵しがたい美しさが宿っている。
そんな人を、見たことがあるような気がする。
色褪せたような姿と、黒い泣きぼくろのコントラストが、少しだけ寂しそうだった。もし心があったら、泣きたい気持ちで過ごしてきたんだろうか。それとも、今はもう泣かなくなったんだろうか。
見ているうちに少しだけ、欲しいと思ってしまった。けれどもまあ、さっきも思ったように、バイトもしていない高校生の買える値段ではないんだろう。
(ええ?)
そこにあった金額は、妙に乃梨子にとって現実的な額だった。今すぐ財布から出せと言われると厳しいけれど、一度家に帰れば何とかなる。
(でも、なんでまた)
少し、落ち着いて考えてからする量の出費だ、ってことは間違いなかった。とりあえず、ここを離れよう。
買う対象を目の前にして考えたんじゃ、思考力が鈍る。それぐらいは、今の乃梨子でも分かった。
立ち去ろう、そう決めた矢先。
「お嬢さん、それが気に入りましたか?」
「きゃっ!?」
悲鳴を上げて、自分自身の悲鳴に驚いた。店主と思しきお姉さんに声をかけられただけなのに。さっきまで、誰もいないと思っていたにしても、こんな風に驚くのは少し変だ。
「ふふ、驚かせてしまいましたか?」
「あ、いえ……」
綺麗に整えられた長髪は、女の子なら誰しも羨むようなサラサラのロングヘア。とても優しい目で、乃梨子のことを見ている。
だけど、不意に何か悪いことを見とがめられたような気持ちになってしまった。何もそんなことはしていないんだけど。
乃梨子の前には、物言わぬ閉じたシャッター。
小さな手書きの貼り紙は、この店が経営難で閉店したことを告げていた。不景気の波は、こんな小さな古本屋を、容赦なく押し流してしまったらしい。
仕方なく、乃梨子は歩き出した。
*
冬の始めの日曜日。乃梨子は、N駅に降り立った。新宿とK駅の中間ぐらいのこのあたりは、趣味のお店が非常に充実していることで有名だ。仏像自体のお店だったり、その関連の古本屋だったりが、数は多くないにせよ、存在している。
仏像鑑賞は、希に、ではあるが非常にお金のかかる趣味だ。普段から財布の紐は気持ち厳しめにしておかなくてはいけない。
だから、菫子さんの家に来てからは、都心に出向くほどお金がかからず、それでもそれなりに楽しめるこの界隈を訪れる機会が多くなったのだ。
北口を出て、アーケードを真っ直ぐに進むと、アーケードと繋がったような形で、雑居ビルに入っていくことになる。4階建てのビルの中には、また小さな店が軒を連ねており、さながら商店街を上に重ねたような感じになっている。
その最上階に、乃梨子がいつも訪れる本屋があったのだが。
「十一月一杯で閉店致しました
永らくのご愛顧ありがとうございました
店長」
店長と言えば、いつもカウンターで本に埋もれながら、本を読んでいたお爺さんのことだろう。
店がなくなって、彼はどうしているんだろう。せめて、元気にしてくれていれば良いんだけど。
そんなことを考えながら、歩を進める。
このビルの中には、各階に数十個の店が構えられているが、他に用のある店があまりない。
(ちょっと、方向性偏ってるよなあ)
乃梨子の右手のショーケースには、妙に素材の安っぽさを感じさせるドレスや、明らかに現実には存在しなそうな、珍妙なデザインの制服が飾られていた。いわゆるコスプレ用品だろう。
リリアンの制服を売ったらいくらぐらいになるんだろうな、なんて罰当たりなことを少しだけ考えた。
もちろん、やらないけど。
階段を探しながら、しばらく歩いて角を左に折れたところには、また別のショーケースがあった。その中には、真新しい人形達が、所狭しと肩を寄せ合っている。子供向けのおもちゃなんかに比べると、関節が動くようになっていたり、細かいディテールに拘ったり、随分と立派に造られている。
下に書かれた値札を、好奇心だけで見てみる。そのゼロの数を見て、世の中には物好きな人が……乃梨子自身も含めて、沢山居るんだなあと実感したのだった。
(ねえ……)
「ん?」
今、誰かに呼ばれたような。
背後を振り返ってみても、それらしき人影はない。
人通りがそれなりにあるので、実際何か危険があるというわけではないはずなんだけど。少しだけ、気味が悪くなった。
誰かに、見られている。
何だか、胸が苦しくなるような気分。
気がついたときには、人の存在を避けるようにして、その店の中に入っていた。魚が水面で酸素を求めるみたいに、それは今の乃梨子にとって自然なことのように感じられた。
(ねえ……)
(どうしたんだろう、私)
古い玩具を扱った小さな店の中には、誰も居なかった。生きている人間に関しては。
その代わりに、小さな命を吹き込まれた人形や縫いぐるみたちが、(ねえ……)乃梨子を優しく見つめているように思えた。
見ているのは、彼らだったんだろう。だけど、気味が悪いのはそれだけのせいじゃなくて。
(ねえ……)
さっきから、断続的に聞こえるこの声だ。
いや……声じゃない。音は、していないんだ。ただ、呼ばれているというだけの感覚。
(こういうの、信じない主義なんだけど)
感覚に従って、どこから呼ばれているのか探ろうと思った。それだけのことで、一体の人形と、「目が合った」。
真っ白な、フランス人形。
長い時間を重ねて、色が落ちてしまったのか、もともとそういう色なのか。年月を重ねて少しだけ荒れた肌も、フリルやレースをこれでもか、ってぐらいに着けたドレスも、一様に色を失ったみたいに、くすんだ白い色をしていた。
ふわーっとした拡がりのある髪も、雪原みたいに白くて。瞳の灰色だけが、彼女の色の全てだった。
まっすぐに見つめるその目線には、どこかで覚えがあるような気がした。だけど、その子細は、霧の中にあるみたいに掴めない。
もう一度、人形をゆっくりと眺めてみる。
なぜ、これが古い玩具の中でも、ひときわ目を引いたのか。その答えが、そこにあると信じて。
見れば見るほど、引き込まれていく感じ。そういう気持ちは、心を入れて作られた仏像を見たときに通じるものは少しある。
(何か、それとは違うんだよなあ)
華やかなドレスも、飾り付けるリボンも趣味じゃなかったはずなのは確かだけど、そういう違いじゃない。
良く見てみれば、最初に思ったほど、真っ白という白さでもない。結構な年数を重ねているみたいだし、当たり前といえば当たり前だ。
この人形が作られたときは、確かに真っ白だったのかもしれない。だけど、その時の人形を想像してみても、いまいち心を惹かれない。
その重ねた年月にこそ、意味があるということなんだろうか。
硝子玉の瞳が、灰色の中に居る乃梨子を映していた。
(意外と、可愛いんだ)
彼女の表情は、改めて見てみると、意外に親しみやすい造形をしていた。よく見ると瞳の下に泣きぼくろがあった。子供が後から書き加えたものだと思うけれど、そのお陰で顔立ちがむしろ柔らかい雰囲気になっている。
案外、西洋人形を真似て日本で作ったものだったりするのかもしれない。だけど、その中には確かに侵しがたい美しさが宿っている。
そんな人を、見たことがあるような気がする。
色褪せたような姿と、黒い泣きぼくろのコントラストが、少しだけ寂しそうだった。もし心があったら、泣きたい気持ちで過ごしてきたんだろうか。それとも、今はもう泣かなくなったんだろうか。
見ているうちに少しだけ、欲しいと思ってしまった。けれどもまあ、さっきも思ったように、バイトもしていない高校生の買える値段ではないんだろう。
(ええ?)
そこにあった金額は、妙に乃梨子にとって現実的な額だった。今すぐ財布から出せと言われると厳しいけれど、一度家に帰れば何とかなる。
(でも、なんでまた)
少し、落ち着いて考えてからする量の出費だ、ってことは間違いなかった。とりあえず、ここを離れよう。
買う対象を目の前にして考えたんじゃ、思考力が鈍る。それぐらいは、今の乃梨子でも分かった。
立ち去ろう、そう決めた矢先。
「お嬢さん、それが気に入りましたか?」
「きゃっ!?」
悲鳴を上げて、自分自身の悲鳴に驚いた。店主と思しきお姉さんに声をかけられただけなのに。さっきまで、誰もいないと思っていたにしても、こんな風に驚くのは少し変だ。
「ふふ、驚かせてしまいましたか?」
「あ、いえ……」
綺麗に整えられた長髪は、女の子なら誰しも羨むようなサラサラのロングヘア。とても優しい目で、乃梨子のことを見ている。
だけど、不意に何か悪いことを見とがめられたような気持ちになってしまった。何もそんなことはしていないんだけど。