白い順列
意味もなく焦って、言葉が矢継ぎ早に飛び出してくる。その言葉が、自分の気持ちを更に追い詰めているのは、薄々判って居るんだけど。
「あの、少し気になるんだけど、やっぱり少し高いし、でも何だか気になることには違いないんです」
「そうですか」
ニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべる彼女は、この懐かしさと癒しの空間にとても相応しいと思えた。
それに比べて、自分はどうなんだろう。ただの、迷い人だ。
「それじゃ、また今度来まーす!」
逃げるように、その場を去った。
「ええ、来てくださいね」
たぶん、また来ることなんてないだろう。
そんな乃梨子の気持ちを知ってか知らずか、お姉さんの目線は、優しいままだった。
*
月曜日。
朝起きた時から、やけに寒さが身に染みた。
冬が始まったことを実感する。
「おはよう……うー、寒いっ」
「リコももう寒さがキツい年か、時の流れは早いねえ」
「そういう菫子さんは、随分と重装備だけど」
家の中だと言うのに、真っ赤な毛糸の靴下を履いたままだ。
たぶん、これから冬の間中、日替わりで色とりどりの靴下で家の中を歩き回るんだろう。想像して、寝ぼけ眼がチカチカした。
「あら、これは単なるファッションよ」
「へえ、そうだったの」
いつもならもう一言二言付け加えるところだが、寒さで意欲が完全に奪われていた。
……後で気付いてみれば、それは寒さのせいではなかったのだが。
顔を洗って、髪の毛を整えて。
朝ご飯を食べて、家を出て。
何かを忘れているような気がしたのは、リリアン前の歩道橋の上。
寝ぼけているのかな。そんなに大事なことではなかったような、でも何かが引っ掛かるような。期末試験までは、山百合会の集まりがなくなった分で、まだ少しだけ余裕があるし。
生徒達の流れに無意識で乗りながら、ぼけーっと物思いにふける。
何だっけな……あ、人形だ。
そうだ、人形が少しだけ欲しくなってしまって買うかどうか考えようと思っていたんだ。だけど、今まで忘れていたぐらいならわざわざ買う必要はないんじゃないか、と思った。
なのに、一度きっかけを掴んでしまうと、そのイメージは徐々に大きく心の面積を占め始める。
白い。くすんだ純白。
色を時間の向こう側に忘れてきた無色の白。
肌から髪から、ドレスまで。
止まった時を映し続けてきたような、灰色の瞳。その時だけは乃梨子を見ていた。
あのショーケースの中で時を刻むよりも、誰かの手元で愛されながら過ごしたい。そんな風な気持ちに、彼女はなっていたんじゃないか。
「あ、すみません」
前を歩く生徒にぶつかって、我に返った。
そうだ、白薔薇のつぼみがこんな風にぽけーっとしていてはいけない。
他のつぼみの先輩方みたいに、来年すぐに白薔薇さまに格上げというわけではもちろんないけれど、志摩子さんの妹として恥ずかしくない程度の行動を常に心がけなくちゃいけない。
それに、志摩子さんなら物思いに耽っていても様になるけど、乃梨子がやってもただ寝ぼけているみたいにしかならない。
そういう意味でも、お姉さまはすごい人だ。
妹の贔屓目を通している部分が少しぐらいはあると自覚しているけれど、それを差し引いたって十二分に素敵だ。
真面目すぎることぐらいしか欠点がない性格に、均整のとれた芸術品みたいな容姿。
そんなお姉さまのことを考えながら歩いていると、マリア像の前で本人がお祈りをしていた。
葉を散らして、冬の姿になった銀杏の枝が、マリア像に影模様を映し出す。朝の光が、志摩子さんの茶色がかった髪を後ろから照らす。マリア像の回りにいる生徒達も、一様に光に包まれて、像に向かって祈っている。
その光景が、一枚の絵みたいに美しい図に見えて、一瞬だけ、踏み込むのを躊躇いそうになった。
マリア様が聖母なら、彼女のもとにいる志摩子さんは……さしずめ、天使? でも、天使みたいに無慈悲なんじゃなくって、むしろ優しすぎるぐらいの人だ。
彼女の隣に並んで、目を閉じて。
マリア様に、お祈りをする。
今日も一日、良い日でありますように。
「ごきげんよう、乃梨子」
「おはようございます、お姉さま」
お祈りを終えるのと同時で、志摩子さんに声を掛けられた。
マリア様に祈る前から良いことがあった場合、それはマリア様のおかげになるんだろうか。
そんなたわいもないことを考えながら、志摩子さんの顔を見て、「何か」に気付いた。
(あれ……?)
「どうしたの、乃梨子?私の顔に、何かついている?」
「いえ……」
志摩子さんの顔はいつも通り。だとすれば、違うのは乃梨子の方であるはず。
「分かった。行きましょう」
「はい」
彼女の半歩後ろを歩いていて、疑問の正体に気付いた。
そう、あの人形に見覚えがあると思った理由って。
「志摩子さんだっ!」
「今度は何なの、急に?」
志摩子さんが、立ち止まって尋ねる。
「ああ……えっと、少し長くなりますよ?」
「聞くわ。時間の許す限り、になってしまうけど」
「構いませんよ。昨日、N駅の近くにある古本屋に行ったんですけど、潰れちゃってまして。で、気まぐれというか……呼ばれるような感じで、その近くにあった古いおもちゃなんかを扱った店に入ったんですね」
乃梨子は焦りだした自分が、自分の言葉に引きずられていくみたいに饒舌になるのを感じていた。それでも、止められない。
「そこで、何でだか一体の西洋人形が気になったんですが……それが、その」
何でだろう。いつもと違って、上手く言葉が出てこなくなってしまった。その時の感覚は、自分でも良く分かっていないのに、志摩子さんになんて説明して良いのか。
「私に、似ていたの?」
志摩子さんは、いつも乃梨子のことを見抜いている。だけど、乃梨子自身でさえ良く分かっていないことを的確に指摘できたら、それはもうエスパーだ。
「そう……だと、最初は思ったんですけど」
「違うのね?」
「その人形は真っ白で、寂しそうで……造形的にも、特に似ているってわけではないんです。ただ、何ていうか……見ていたら、お姉さまのことを無意識に思い出した、というか」
「真っ白で、寂しそうなのかしら、私?」
小首を傾げて問う志摩子さん。
「とんでもないですよ。お姉さまの方が、ずっと素敵な顔をします」
「ふふ、ありがとう」
春の日ざしみたいに優しい、素直な微笑み。
たぶん、これが志摩子さんがみんなに愛される一番の理由なんじゃないか、って乃梨子は思っている。それぐらい、輝いて見える。
だけど、だったらどうして、あの人形の中に志摩子さんの影を見出したりしたんだろう……?
「私も、どこかで……」
志摩子さんが、遠い目をして呟いた。
「どこか、って……?」
「いいえ、何か記憶に引っ掛かるんだけど……思い出せないのよ」
「ふふっ、私もそんな感じなんです」
妙な連帯感が生まれて。
二人で、冬の空に向かって笑い合った。
*
だけど、それで乃梨子の悩みが吹っ切れたわけでは全然なかったのだ。
今朝まで忘れていたことなのに、思い出してしまったから。喉の奥に引っかかった小骨みたいに、気になる点が現れては消えていく。