だいだい
琥珀色の髪をした少年が一人。薄暗い廊下の隅の、ワイン色をした長いすに腰掛けている。
辺りに灯りはなく、遠くの窓から差し込む日の光だけが、ぼんやりと廊下を浮かび上がらせていた。廊下は、壁も床もどこまでも白く、それは清潔感よりも、拒絶を表しているかのようだ。
その、どこまでも白に覆われた空間にぽつんと、まるで取り残されたようにある、ワイン色の長いす。そして少年。
人の気配のない、まるで夜の海のような。どこまでも静かの満ちている廊下の、長いすに腰掛けた少年は、小さく小さく、まるで世界から消えてしまいたいように縮こまって、肩をふるわせている。
彼はひくひくと嗚咽を漏らしながら、時折雪に溶けてしまいそうな声で、誰かの名前を呼んでいた。
ポロポロと涙を零す瞳は髪と同じ……髪よりも色素の濃い琥珀の色だ。その琥珀を溶かしながら、キラキラと光の粒のように雫が、彼の頬を伝って落ちて行く。
ああ、かわいそう。
その子が、泣かなければいいのに。泣いてしまってもせめて、その涙を拭ってあげる手だとか、涙を止める言葉を持つ者が、近くにいたらいいのに。
涙を拭う手を持つ者が、言葉を持つ者が、それがもし自分だったらと望むけれど、傍観者は何一つとして持っていなかった。ただ傍観だけを許された者は、意識すらも水に猶予うように曖昧で、ただぼんやりと、潔白の廊下の透けただ無力さを伝えてくる掌をとおして少年を眺めていると、物の感触も空間の冷たさも、すっかり失われた背中に、ほんのりと温かな光を浴びた気がした。
傍観者が慌てて振り返る……までもなく、気づけば身体のすぐ横を、光を宿したような、クリィム色のスーツを纏った、細身の男がすり抜けて行った。
「こんにちは」
男はそのまま、涙を零し続けている少年の前に立つ。
「……誰?」
ゆるゆると顔をあげて、湿った声で問う少年に微笑みだけを返しながら、男は少年のすぐ目の前。高そうなスーツが汚れるのも厭わずに、床に膝をついた。
「キミは、どうして泣いているの?」
「とても、とても大切な人が、どっかに行っちゃったから」
もう、絶対に戻って来ないから。
辛うじて、何を言っているかがわかるような声。雫をポロポロと、にぎりしめたこぶしに吸わせて、少年は絞るように言葉を紡ぐ。
「……そう」
男はそれに、真っ白な廊下に浮かべるようにゆっくりと相槌をうった。
それからこちらへと視線を向けた気がしたが、傍観者がそれを認識するよりもずっとはやく。男の瞳は、目の前の少年を見つめてしまった。
それから雫で濡れるこぶしに、大きな掌を。
まるで触れれば壊れてしまう硝子の置物に触れるように重ねて、もう片方の手で俯く少年の顔をあげてから、男は泣くように微笑んだ。
「その人に……戻って来てほしい?」
「……っ、はい!」
なんとか泣き止んだ少年は、瞳をいっぱいに開きながら、力を込めて頷いた。
澄んだ琥珀の瞳には薄い膜がはっているようで、日の光をそのまま宿しているように輝いていた。
男はいい返事だね、と口許を少しだけ緩ませて、それから震えるように言葉を紡いだ。
「君の世界に、彼を帰してあげることはできる。……でも二度と、君の元に返すことはできない」
「俺の、元?」
希望だけをのせた少年が、首を傾げて繰り返す。
「そう、君の元。……彼を君の世界に帰すことはできるけど、その彼と、君は永遠に会う事は叶わなくなる。君と彼との、道の交わる運命は消え去って、君の中にある彼の記憶さえも、消えてしまう」
それでも、いい?
「はい」
問いは直ぐに返された。
男の不安げな表情をよそに、少年は少しも迷った様子を見せなかった。まるで問いの答えが、それしか存在していないかのように。
あっさりと”大切な人”と二度と会えない道を選んでしまった。
「それであの人が助かるのなら、消えてしまわないなら……俺は、二度と会えないことくらい、へっちゃらです」
ほろりと、見間違えみたいに一粒だけ涙を零して、少年は笑った。
「そっか」
それを聞いてほっとしたように、問うていた男も口許を緩める。
だがすぐに真剣な表情に戻して、男は少年の手に、先程から握っていたこぶしに視線を落とした。
少年がそっと手を開くと、手のひらの上には七色の石がのっていた。
それは虹を切り取ったように美しく澄んだ色をして、まるで呼吸をするようにキラキラと輝いている。
「これを……」
男はその中から、一際眩い彩を放っている紫の石をそっと摘まんで、少年の顔の前に掲げた。
「これをもらっていくね」
少年は紫の石をじっと見つめたまま、少しも目をそらさずに頷いた。
男はそれに微笑んで返すと、紫の石をそっと、まるで愛しい物のように握って、少年の前から立ち上がる。
それから先、少年は男が来る前と同じように、だがもう涙は零さずに俯いてしまった。
その様子を眺める傍観者の前を、男は再び歩いて来る。
その男の眼は確かに、まっすぐと傍観者の目を捉えて、声を出さずに唇だけを動かして何事かを呟いた。
それから男は、ふわりと光を放つように、すっかり消え去ってしまっていた。
気づけば傍観者の目の前には、男が来る前となんら変わらぬ空間が広がっているだけであった。
辺りに灯りはなく、遠くの窓から差し込む日の光だけが、ぼんやりと廊下を浮かび上がらせていた。廊下は、壁も床もどこまでも白く、それは清潔感よりも、拒絶を表しているかのようだ。
その、どこまでも白に覆われた空間にぽつんと、まるで取り残されたようにある、ワイン色の長いす。そして少年。
人の気配のない、まるで夜の海のような。どこまでも静かの満ちている廊下の、長いすに腰掛けた少年は、小さく小さく、まるで世界から消えてしまいたいように縮こまって、肩をふるわせている。
彼はひくひくと嗚咽を漏らしながら、時折雪に溶けてしまいそうな声で、誰かの名前を呼んでいた。
ポロポロと涙を零す瞳は髪と同じ……髪よりも色素の濃い琥珀の色だ。その琥珀を溶かしながら、キラキラと光の粒のように雫が、彼の頬を伝って落ちて行く。
ああ、かわいそう。
その子が、泣かなければいいのに。泣いてしまってもせめて、その涙を拭ってあげる手だとか、涙を止める言葉を持つ者が、近くにいたらいいのに。
涙を拭う手を持つ者が、言葉を持つ者が、それがもし自分だったらと望むけれど、傍観者は何一つとして持っていなかった。ただ傍観だけを許された者は、意識すらも水に猶予うように曖昧で、ただぼんやりと、潔白の廊下の透けただ無力さを伝えてくる掌をとおして少年を眺めていると、物の感触も空間の冷たさも、すっかり失われた背中に、ほんのりと温かな光を浴びた気がした。
傍観者が慌てて振り返る……までもなく、気づけば身体のすぐ横を、光を宿したような、クリィム色のスーツを纏った、細身の男がすり抜けて行った。
「こんにちは」
男はそのまま、涙を零し続けている少年の前に立つ。
「……誰?」
ゆるゆると顔をあげて、湿った声で問う少年に微笑みだけを返しながら、男は少年のすぐ目の前。高そうなスーツが汚れるのも厭わずに、床に膝をついた。
「キミは、どうして泣いているの?」
「とても、とても大切な人が、どっかに行っちゃったから」
もう、絶対に戻って来ないから。
辛うじて、何を言っているかがわかるような声。雫をポロポロと、にぎりしめたこぶしに吸わせて、少年は絞るように言葉を紡ぐ。
「……そう」
男はそれに、真っ白な廊下に浮かべるようにゆっくりと相槌をうった。
それからこちらへと視線を向けた気がしたが、傍観者がそれを認識するよりもずっとはやく。男の瞳は、目の前の少年を見つめてしまった。
それから雫で濡れるこぶしに、大きな掌を。
まるで触れれば壊れてしまう硝子の置物に触れるように重ねて、もう片方の手で俯く少年の顔をあげてから、男は泣くように微笑んだ。
「その人に……戻って来てほしい?」
「……っ、はい!」
なんとか泣き止んだ少年は、瞳をいっぱいに開きながら、力を込めて頷いた。
澄んだ琥珀の瞳には薄い膜がはっているようで、日の光をそのまま宿しているように輝いていた。
男はいい返事だね、と口許を少しだけ緩ませて、それから震えるように言葉を紡いだ。
「君の世界に、彼を帰してあげることはできる。……でも二度と、君の元に返すことはできない」
「俺の、元?」
希望だけをのせた少年が、首を傾げて繰り返す。
「そう、君の元。……彼を君の世界に帰すことはできるけど、その彼と、君は永遠に会う事は叶わなくなる。君と彼との、道の交わる運命は消え去って、君の中にある彼の記憶さえも、消えてしまう」
それでも、いい?
「はい」
問いは直ぐに返された。
男の不安げな表情をよそに、少年は少しも迷った様子を見せなかった。まるで問いの答えが、それしか存在していないかのように。
あっさりと”大切な人”と二度と会えない道を選んでしまった。
「それであの人が助かるのなら、消えてしまわないなら……俺は、二度と会えないことくらい、へっちゃらです」
ほろりと、見間違えみたいに一粒だけ涙を零して、少年は笑った。
「そっか」
それを聞いてほっとしたように、問うていた男も口許を緩める。
だがすぐに真剣な表情に戻して、男は少年の手に、先程から握っていたこぶしに視線を落とした。
少年がそっと手を開くと、手のひらの上には七色の石がのっていた。
それは虹を切り取ったように美しく澄んだ色をして、まるで呼吸をするようにキラキラと輝いている。
「これを……」
男はその中から、一際眩い彩を放っている紫の石をそっと摘まんで、少年の顔の前に掲げた。
「これをもらっていくね」
少年は紫の石をじっと見つめたまま、少しも目をそらさずに頷いた。
男はそれに微笑んで返すと、紫の石をそっと、まるで愛しい物のように握って、少年の前から立ち上がる。
それから先、少年は男が来る前と同じように、だがもう涙は零さずに俯いてしまった。
その様子を眺める傍観者の前を、男は再び歩いて来る。
その男の眼は確かに、まっすぐと傍観者の目を捉えて、声を出さずに唇だけを動かして何事かを呟いた。
それから男は、ふわりと光を放つように、すっかり消え去ってしまっていた。
気づけば傍観者の目の前には、男が来る前となんら変わらぬ空間が広がっているだけであった。