だいだい
深く暗い湖の底から引き上げられるように、雲雀はゆっくりと瞳をあげた。
気がつけば雲雀は、一人。薄暗い廊下の隅の、ワイン色をした長いすに腰掛けていた。
辺りに灯りはなく、遠くの窓から差し込む日の光だけが、ぼんやりと廊下を浮かび上がらせている。廊下は、壁も床もどこまでも白く、それは清潔感よりも、拒絶を表しているかのようだ。
頭の芯の辺りが、まだ眠りに浸っている事を感じながら、雲雀はそれを払うように顔を左右に振って記憶を呼び戻した。
両手を上にして伸びをすると、肩と首の辺りから、ぽきぽきと音が鳴って、酷い姿勢で寝こけてしまった自分に顔を顰める。
確か雲雀は、草壁に煩く言われて、並盛病院の健康診断を受けに来ていた筈であった。
人に身体を触れられる事も、急所を晒す事も嫌いな雲雀であったが、この病院の委員長だけは、中学の時代より診せていた事もあり、それなりに信用を寄せている。
そうして診断が終わって草壁に車を回させている間、人の多い待合室ではなく、適当な長椅子で待っているはずだった。
車を待つだけの短い時間のうちに、気づけばすっかり寝入ってしまっていたらしい。
病院でも通話可能である、特殊な携帯を開けば、寝入った時間は5分くらいである事と、草壁からの着信が3件ほど入っているのに気づいた。
3度かけても繋がらない事で諦めた草壁は、わざわざ病院に入って雲雀を探したりせずに、今頃車の中で表情を曇らせている事だろう。
雲雀はふわあと欠伸をしながら立ち上がり、待たせてしまった部下の元へ戻ろうと、漸く病院の扉をくぐった。
そうして車を探そうと辺りを見回して、目の前に大きな外車と、何人かの黒いスーツの男がいるのに気づいた。なにを慌てているのか、ざわざわとした気配に皆が車にばかり集中しているようだ。その景色にほんの少し、背中がちりりと焼けるような違和感がして、雲雀はその様子をまじまじと見つめる。
物騒な物は並盛には入れないように気をつけている筈だが、どうにもよくない気配がする。
殺意とまではいかず、探るような視線を向ければ、中の一人、他のスーツたちを動かしていた男が視線に気づいたのか、此方を振り返った。
細身の男だった。まだ若い、少年のようにもみえる顔をしているが、真っ黒なスーツは彼にとても馴染んでいた。ボルサリーノの下に隠れた黒曜石のような瞳が細められて、雲雀の奥まで透かすように見つめて来た。
一瞬の視線に、雲雀は背筋を震えさせる。
少しの綻びも許さない、完全に仕舞われている殺気。瞳の奥にだけその色を滲ませて、小物と窘められた様だった。
この少年はとても強い。
間違いなく雲雀の飢えを満たせる強さを持っていると予感して、口角が上がってしまう。
だが、目の前を慌ただしく過ぎて行ったストレッチャーと銀髪の男に、二人の視線は切り離されてしまった。
「リボーンさん、借りて来ました」
「よし、車に寄せろ。そっとだぞ」
「はい!」
それっきり、少年の意識は車に、おそらくその中にいるであろう人物に向けられてしまって、もう此方に向く事は無かった。
きっともう、此方に向く事は期待できないだろう。
雲雀は溜息をついて、車を探して歩きだした。
「ツナ、聞こえるか?」
「意識はたもたせとけ、シャマルはどうした?」
「奥で待ってるんで、そのまま運んで大丈夫です」
通り過ぎて行くスーツの集団。ちらりと覗いた、ストレッチャーの上の、血濡れの青白い顔と揺れる琥珀の髪が、どこかで見たようにも思えた。だが特に気にすることもなく、雲雀は歩き去って行った。