【東方】夢幻の境界【一章(Part5)】
魔理沙が目を覚ましたのは、洋館の雰囲気にぴったりの上品なソファの上だった。
昨夜は結局深夜まで実験を続けていた。想像以上に良い結果が出たので、二人して子供のようにはしゃぎながら時間を忘れて没頭してしまった末、疲れ果てた魔理沙はソファに倒れこむようにして寝てしまったのだ。
いつの間にかかけてあった毛布をどかして起き上がると、カーテンの開けられた窓から差し込む光に一瞬目がくらみ、目の上に手のひらを当てた。
外の明るさからすると、目覚めるにはいささか遅かったかもしれない。
「……ん、いま何時だ?」
半分閉じたままの瞼を擦りながら辺りを見渡して時計を探した。
「もうすぐ10時よ」
魔理沙が目当ての時計を見つけるのと同時に聞こえた声の主は、綺麗な装飾の施されたトレイに二人分の紅茶を乗せて運んできているところだった。
ソファに座っていながらでも紅茶の甘い香りが伝わってくる。それは寝ぼけ眼だった魔理沙を覚醒させるには十分だった。
「ふあぁ。良い匂いだな」
「ダージリンよ。ほら、女の子なんだからもう少し身だしなみに気をつかいなさいよ」
あくび混じりで言った魔理沙に対して、アリスはトレイを机の上に置いてから用意してあったであろう鏡と櫛を差し出してきた。魔理沙はそれを受け取りはしたが、鏡は見ないで適当に髪を梳(す)く程度にしておいた。これから誰かに会うわけでもないし、寝癖なんて家に帰ってからゆっくり直せばいい。なにより、紅茶が冷めてしまうではないか。
そんな魔理沙の様子を椅子に座って紅茶を飲みながら眺めていたアリスは、呆れたようにうなだれていた。魔理沙は「まあまあ」と言いながら空いている椅子に座った。
たしかにアリスは普段から身だしなみには気をつけている節がある。もし初めて会ったときに貴族のお嬢様ですなどと言われれば信じてしまうだろう。いや、今朝も魔理沙より先に起きて紅茶まで準備しているあたり、貴族のお嬢様というより貴族に仕える使用人のほうがしっくりくるかもしれない。
とにかく友人と二人きりの時ぐらいは楽にしていいと思うのだ。そもそもそんなに身だしなみに気をつかったところで、一体何の得があるというのだろうか。別に見せる相手がいるわけでもないだろうに――まさか、アリスには相手がいるのだろうか。もしかして知らないうちに人里で……
頭の中であれこれと妄想を膨らせながら無意識に紅茶を飲んで、魔理沙はようやく我に返った。
「……おいしい」
「でしょ? 昨日の実験がうまくいったから、お祝いとまでは言わないけどちょっと奮発してとっておきの……ちょっと、聞いてるの?」
「え、あぁ……うん」
魔理沙が心ここにあらずだったのはアリスの説明を聞くのが面倒だったからではない。楽しそうに笑いながら話しているアリスを見ていたら、先ほどの自分が馬鹿らしく思えてしまったからだ。
カップの中を覗き込んで、魔理沙は自嘲気味に笑った。
薄いオレンジ色の紅茶に映る顔の、なんと情けないことか。
「魔理沙?」
覗き込むようにしてこちらの顔色を窺ってきたアリスに、魔理沙は「なんでもない」と言って、紅茶の残りを飲み干した。口の中いっぱいに紅茶の風味が広がり、少しむせてしまった。アリスはまたもや呆れてうなだれてしまった。
魔理沙はけほけほと咳き込みながら、訝しげにこちらを見てくるアリスから目を逸らした。
声には出していないが、あきらかに魔理沙の挙動を不審に思っているのが顔を見なくても雰囲気だけでわかった。
「き、気にすんな! ところで宴会の話はどうなったんだ?」
いまの空気に耐えられず無理に話題を変えてみたのだが、これが妙なことになってしまった。
先ほどまで魔理沙の顔を訝しげに見ていたアリスの目が一瞬だが眉根を寄せたように見えたと思ったら、次の瞬間には人形のように無表情な少女がそこにいた。
突然のことで魔理沙が困惑していると、アリスは何事も無かったかのように、だが、取り繕ったのがわかり過ぎるほどにわかる不自然な笑みを浮かべた。
「えぇ、順調に進んでるわよ」
昨夜のアリスと紫のやり取りを思い出した。
あのとき二人は魔法を使って魔理沙に声が聞こえないようにしていた。どうしてそんなことをしたのかはわからないが、今のアリスの態度を見ればなにか知られてはならない、それも魔理沙にとって好ましくない話だったのは歴然である。そもそも宴会の話だったのかすら怪しい。アリスと紫が一緒いたこと自体珍しいというのに、普段は誘われる側のアリスが宴会の企画者側に立つなど初めてではないだろうか。
何を隠しているのか気になるが、もう少し様子を見てから訊くことにしようと思い、魔理沙はできるだけ動揺を隠しながら話を続けた。
「……そうか、そういえば宴会なんて久しぶりだな」
魔理沙自身もそうなのだが、周りの友人たちが揃って宴会好きなのでことあるごとに宴会を開いており、今の時期だと雪が降るたびに皆で集まって雪見酒に興じるのだ。
だが最近は肝心の雪が降っていないので、一ヶ月ほど宴会は開かれていない。もっとも、一ヶ月で久しぶりだと感じるのは魔理沙だけの感覚なのだろうが。
「アリス?」
魔理沙は空だというのを忘れてカップを持ち上げようとしてしまい、一気に飲むんじゃなっかたと後悔しながら顔を上げて、ようやくアリスの異変に気づいた。
アリスは魔理沙の呼びかけにも応えず、愕然とした表情のまま、ぜんまいの切れた人形のようにぴたりと動かなくなってしまっていたのだ。
これにはさすがの魔理沙も無視できなかった。
「おい、どうしたんだよ! おまえさっきからおかしいぞ?」
魔理沙がそう言うと、アリスは小さく「あっ」と言ってから顔を手で覆いながら背けた。
その横顔からは、汗が頬を伝って落ちていくのと眉間に見たことも無いほどしわを寄せているのが見て取れた。
いかなる時でも冷静さを崩さないアリスがここまで平静を欠くなど、もはやただ事ではない。
ただ、今の会話の中のどこにアリスがこうなる要素があったというのか。
昨晩の紫とのやり取りに始まり、今のアリスの反応はすでに魔理沙ではどうしようもないほどの当惑をもたらしていた。
「今日は……」
先に沈黙を破ったのはアリスだった。
「今日は、もう帰ってくれないかしら」
だが、発せられた言葉は、魔理沙の意とは異なるものだった。
顔を背けたままのアリスの横顔から見える目に魔理沙が映っていないのは明白だった。
もう何を訊いても無駄だろう。
それはいままでの経験だとか、アリスの性格を考えてのものではなく、直感がそう告げているのだ。
「そうだな」
椅子から立ち上がり、実験の資料を取りに実験部屋へと向かった。その際アリスのほうを振り返り見たのだが、やはり身動きひとつせずどこかを見つめたままだった。いや、むしろ視界にはなにも映っていないのかもしれない。
魔理沙が茸を入れていた袋は実験部屋の隅に置かれていた。綺麗に畳んであるあたり、魔理沙がソファに倒れこんだ後にアリスがやってくれたのだろう。そして机の上に丁寧に置かれていた実験の資料をその袋に詰め込んだ。以前のアリスが見たらあまりの粗雑さにまた溜息を漏らしていただろう。
昨夜は結局深夜まで実験を続けていた。想像以上に良い結果が出たので、二人して子供のようにはしゃぎながら時間を忘れて没頭してしまった末、疲れ果てた魔理沙はソファに倒れこむようにして寝てしまったのだ。
いつの間にかかけてあった毛布をどかして起き上がると、カーテンの開けられた窓から差し込む光に一瞬目がくらみ、目の上に手のひらを当てた。
外の明るさからすると、目覚めるにはいささか遅かったかもしれない。
「……ん、いま何時だ?」
半分閉じたままの瞼を擦りながら辺りを見渡して時計を探した。
「もうすぐ10時よ」
魔理沙が目当ての時計を見つけるのと同時に聞こえた声の主は、綺麗な装飾の施されたトレイに二人分の紅茶を乗せて運んできているところだった。
ソファに座っていながらでも紅茶の甘い香りが伝わってくる。それは寝ぼけ眼だった魔理沙を覚醒させるには十分だった。
「ふあぁ。良い匂いだな」
「ダージリンよ。ほら、女の子なんだからもう少し身だしなみに気をつかいなさいよ」
あくび混じりで言った魔理沙に対して、アリスはトレイを机の上に置いてから用意してあったであろう鏡と櫛を差し出してきた。魔理沙はそれを受け取りはしたが、鏡は見ないで適当に髪を梳(す)く程度にしておいた。これから誰かに会うわけでもないし、寝癖なんて家に帰ってからゆっくり直せばいい。なにより、紅茶が冷めてしまうではないか。
そんな魔理沙の様子を椅子に座って紅茶を飲みながら眺めていたアリスは、呆れたようにうなだれていた。魔理沙は「まあまあ」と言いながら空いている椅子に座った。
たしかにアリスは普段から身だしなみには気をつけている節がある。もし初めて会ったときに貴族のお嬢様ですなどと言われれば信じてしまうだろう。いや、今朝も魔理沙より先に起きて紅茶まで準備しているあたり、貴族のお嬢様というより貴族に仕える使用人のほうがしっくりくるかもしれない。
とにかく友人と二人きりの時ぐらいは楽にしていいと思うのだ。そもそもそんなに身だしなみに気をつかったところで、一体何の得があるというのだろうか。別に見せる相手がいるわけでもないだろうに――まさか、アリスには相手がいるのだろうか。もしかして知らないうちに人里で……
頭の中であれこれと妄想を膨らせながら無意識に紅茶を飲んで、魔理沙はようやく我に返った。
「……おいしい」
「でしょ? 昨日の実験がうまくいったから、お祝いとまでは言わないけどちょっと奮発してとっておきの……ちょっと、聞いてるの?」
「え、あぁ……うん」
魔理沙が心ここにあらずだったのはアリスの説明を聞くのが面倒だったからではない。楽しそうに笑いながら話しているアリスを見ていたら、先ほどの自分が馬鹿らしく思えてしまったからだ。
カップの中を覗き込んで、魔理沙は自嘲気味に笑った。
薄いオレンジ色の紅茶に映る顔の、なんと情けないことか。
「魔理沙?」
覗き込むようにしてこちらの顔色を窺ってきたアリスに、魔理沙は「なんでもない」と言って、紅茶の残りを飲み干した。口の中いっぱいに紅茶の風味が広がり、少しむせてしまった。アリスはまたもや呆れてうなだれてしまった。
魔理沙はけほけほと咳き込みながら、訝しげにこちらを見てくるアリスから目を逸らした。
声には出していないが、あきらかに魔理沙の挙動を不審に思っているのが顔を見なくても雰囲気だけでわかった。
「き、気にすんな! ところで宴会の話はどうなったんだ?」
いまの空気に耐えられず無理に話題を変えてみたのだが、これが妙なことになってしまった。
先ほどまで魔理沙の顔を訝しげに見ていたアリスの目が一瞬だが眉根を寄せたように見えたと思ったら、次の瞬間には人形のように無表情な少女がそこにいた。
突然のことで魔理沙が困惑していると、アリスは何事も無かったかのように、だが、取り繕ったのがわかり過ぎるほどにわかる不自然な笑みを浮かべた。
「えぇ、順調に進んでるわよ」
昨夜のアリスと紫のやり取りを思い出した。
あのとき二人は魔法を使って魔理沙に声が聞こえないようにしていた。どうしてそんなことをしたのかはわからないが、今のアリスの態度を見ればなにか知られてはならない、それも魔理沙にとって好ましくない話だったのは歴然である。そもそも宴会の話だったのかすら怪しい。アリスと紫が一緒いたこと自体珍しいというのに、普段は誘われる側のアリスが宴会の企画者側に立つなど初めてではないだろうか。
何を隠しているのか気になるが、もう少し様子を見てから訊くことにしようと思い、魔理沙はできるだけ動揺を隠しながら話を続けた。
「……そうか、そういえば宴会なんて久しぶりだな」
魔理沙自身もそうなのだが、周りの友人たちが揃って宴会好きなのでことあるごとに宴会を開いており、今の時期だと雪が降るたびに皆で集まって雪見酒に興じるのだ。
だが最近は肝心の雪が降っていないので、一ヶ月ほど宴会は開かれていない。もっとも、一ヶ月で久しぶりだと感じるのは魔理沙だけの感覚なのだろうが。
「アリス?」
魔理沙は空だというのを忘れてカップを持ち上げようとしてしまい、一気に飲むんじゃなっかたと後悔しながら顔を上げて、ようやくアリスの異変に気づいた。
アリスは魔理沙の呼びかけにも応えず、愕然とした表情のまま、ぜんまいの切れた人形のようにぴたりと動かなくなってしまっていたのだ。
これにはさすがの魔理沙も無視できなかった。
「おい、どうしたんだよ! おまえさっきからおかしいぞ?」
魔理沙がそう言うと、アリスは小さく「あっ」と言ってから顔を手で覆いながら背けた。
その横顔からは、汗が頬を伝って落ちていくのと眉間に見たことも無いほどしわを寄せているのが見て取れた。
いかなる時でも冷静さを崩さないアリスがここまで平静を欠くなど、もはやただ事ではない。
ただ、今の会話の中のどこにアリスがこうなる要素があったというのか。
昨晩の紫とのやり取りに始まり、今のアリスの反応はすでに魔理沙ではどうしようもないほどの当惑をもたらしていた。
「今日は……」
先に沈黙を破ったのはアリスだった。
「今日は、もう帰ってくれないかしら」
だが、発せられた言葉は、魔理沙の意とは異なるものだった。
顔を背けたままのアリスの横顔から見える目に魔理沙が映っていないのは明白だった。
もう何を訊いても無駄だろう。
それはいままでの経験だとか、アリスの性格を考えてのものではなく、直感がそう告げているのだ。
「そうだな」
椅子から立ち上がり、実験の資料を取りに実験部屋へと向かった。その際アリスのほうを振り返り見たのだが、やはり身動きひとつせずどこかを見つめたままだった。いや、むしろ視界にはなにも映っていないのかもしれない。
魔理沙が茸を入れていた袋は実験部屋の隅に置かれていた。綺麗に畳んであるあたり、魔理沙がソファに倒れこんだ後にアリスがやってくれたのだろう。そして机の上に丁寧に置かれていた実験の資料をその袋に詰め込んだ。以前のアリスが見たらあまりの粗雑さにまた溜息を漏らしていただろう。
作品名:【東方】夢幻の境界【一章(Part5)】 作家名:LUNA