夜が来たる
太陽が半分ほど沈んだころようやく小屋にたどり着いた。そう広くはない中に足を踏み入れると、先に戻って来ていた文次郎が畳の上で盗ってきたであろう巻物を広げ読んでいたが、気配に気付いて顔をあげた。
「おう、お疲れさん。遅かったな」
「生憎なかなか放してもらえなくてな」
頭に被っていた市女笠を取って畳に放り投げ、文次郎の隣に腰を下ろして巻物を奪い取った。有り難い、と称されていた巻物の内容は唐の漢詩で、何のことはない、学園の図書室の持ち出し禁となっているもの程度であった。すぐに興味を失い、くるくると丸めて畳に投げた。
「仙蔵、お前大分酒くさいぞ」
「仕方あるまい。昼間からあれだけ酒を飲まれては、においくらいうつる」
「また随分と可愛がられてたじゃねぇか」
そう言ってくる男の顔にはからかいの笑みが浮かんでおり、喉でくつくつと笑っているのが非常に気に入らない。
「ふん、女好きというわりにあれだけ触っておいて女じゃないと気付かないとは全く鈍い主人だったよ」
「まぁこんだけ細けりゃ、な。酒の回った状態で分からずとも仕方あるまい」
拗ねるように顔を背ければ、決して上品とは言い難い笑いを含ませながら腰に手を回された。撫でるような触り方にお前はあの主人と同じかと突っ込みたくなる。それに遠回しにまるで女と同じようだと言われているようで不愉快だった。一撫でして去っていくかと思われた手はいつまでも同じようなところを往復している。いい加減にしろと文句を言おうと顔を横を向けたら、思いの外近くにあった顔に驚いた。附抜けた顔をしているかと思っていたが、真剣とは行かずとも文次郎の顔は案外真面目だった。一瞬の戸惑いのせいで文句を言うのが遅れ、文次郎の方が先に口を開いた。
「少しくらい妬かせろ」
腰をぐいと引き寄せられ、左手にはもう片方の手を重ねられた。より距離が近づき、文次郎が一体何をしようとしているのか悟って咄嗟に反論をする。
「…まだ化粧もおとしてな、っ」
い、と続くはずだった言葉は奪われた。反射的に目を瞑ったせいか、急に自分の白粉と酒の匂いにクラリとした。僅かに開いていた口から舌をねじ込まれる。どこか焦らすような、それでいて息を奪うような口づけに、上体がずるずると崩れていった。すぐ横にあった壁に背中がぶつかって途中で止まると同時に、唇も解放された。酸素を求めて大きく息を吸う。文次郎が紅の移った唇をグイと親指の腹で拭う仕草に、ゾクリと背中に何かが駆けめぐった。僅かに見惚れているうちに、身体を下にひっぱられて完全に畳に寝っ転がる形になってしまった。あっという間に手首を押さえられ首に顔を埋められて、いよいよ焦りが生じる。女の格好で女の代わりのように抱かれるなんて耐えられない。たとえ文次郎にそのつもりはなくとも、この状況ではそうではないのかと疑ってしまう。上にのしかかってくる文次郎を除けたくても着物のせいで蹴り飛ばすことさえ出来ない。
「っ、女を抱きたいのなら町にでも行け!」
残された武器は口しかあらず、勢いでそう口にするとピタリと文次郎が止まった。手首を押さえ付けている手の力がギリリと強くなった。上体をあげて見下ろしてくる文次郎の顔は先ほどまでとは一転して眉間に皺が刻まれている。
「おい、それ本気で言ってんのか」
厳しい目付きと声の固さに酷くたじろいだ。弾みで言った言葉にまさかそこまで反応されるとは思わなかった。気迫に後ずさりたかったが、しっかりと床に縫いつけられている。
「俺が、お前を、あの主人がお前に対して接したのと同じように、お前を扱うとでも」
「…おも、わない」
真剣な声色に押されて出てきた言葉はたったその一言だった。けれど、本当に思ってなどいない。文次郎はいつだって私に対して真摯に向かって来てくれている事を知っている。知っている…知っているけれども、それでも咄嗟に酷い事を言ってしまうぐらいには怖かった。真剣な眼差しが苦しくて、思わず目を逸らす。この気持ちをなんと文次郎に伝えればいいのかが分からない。
途端、溜息が降ってくると共に手首にかけられていた体重が軽くなった。文次郎の顔に目線を戻すと、仕方ないといった風で、私の勝手な我が儘を聞く時にするのと同じ顔をしていた。
「いい、そんなに嫌なら無理強いはせん。悪かったな」
そう言って渋々上から退こうとする男の袖口を、何故か咄嗟に掴んでしまった。
「まっ…!」
考えるよりも先に身体が動いた。咄嗟に掴んでから何で掴んでしまったかを考える。文次郎が驚いたという顔でこっちを見ている。今度は視線を外さない。恐らく文次郎が離れていくのも怖かったのだ。女のようには扱われたくないけれど、どんな姿の時だって愛されたい。要求が半ば矛盾しているのだから、我ながら酷い我が儘だと思う。私の意志を汲み取ったのか否かは分からないが、目を丸くしていた文次郎が躊躇いながら口を開いた。
「…いいのか」
「言わせるな、アホ」
この期に及んで口の悪さが直らないのは性分だ。再び近づいてくる身体に、今度は自由になった腕を首にまわした。激しく求められる寸前に見た窓の外はもうすっかり暗くなっていた。