侵食は始まった
侵食は始まった
無意識に伸びた手を有意識が止めようとして、目が覚めた。馴染んだスプリングの感触、カーテン越しの街明かり、それらを認識して浮かぶ失望感。疑いようのなく新宿の自室だ。池袋からは遙か遠くに位置している。
癖のような状況把握の後、早鐘を打つ心臓を宥めつける。汗で湿った頭皮が気持ち悪い。起き上がりながら、肌に貼りつくシャツを脱ぎ捨てる。ベッドから離れる、常人なら寝起きとは思えないほど俊敏な動作も、折原臨也にとっては当然のこと。休養から活動にスイッチが切り替わる。
瞬時のそれができなければ今日一日すら生存が危うい。それが彼が選んだ立ち位置。
そして、その一日をこれからの続けていくのなら、
見ていた夢は忘れた方が身のためだ。
小型冷蔵庫を開き、ペットボトルを取り出す。ちゃぷんと透明な水が揺れた。乾いた身体に流しこむ飲料水の心地良さに、追ってくる面影が煩わしい。
愉快で軽快な切り替えしの言葉。
あどけなさの混じる口調と声。
小さくうずくまる後ろ姿。
涙に濡れていたあの頬。
時折思い出したように携帯電話を鳴らす着信者の名前すら。
それに付随する感情ごと深海に沈めてしまえ。
薄闇を液晶が照らす。無機質な音をたてて、PCが起動していく。その待つ時間は、嫌いではない。プレゼントの包装を少しずつ破いていく期待感と焦燥感に、心が踊る。その裏腹、冷静な思考は、プレゼントの中身の予測と推測を繰り広げている。
チャットを開いて、予想していた結果に落胆する。
田中太郎は今日も来なかった。
手慣れた一人二役を惰性で続けながら、ログを開く。内緒モードの中の、田中太郎ではなく、帝人としての言葉。そこに見え隠れする臨也を信じる無邪気さに、自嘲する。
次々と開いていく画像データに映る表情は、緊張にこわばり、冷たい印象を与える。もっと、ふにゃりと気の抜けるように笑う子だった。距離感を決して忘れない冷静さが顔をのぞかせるときもあったけれど。
仕組んだのは自分だ。
傍観者に徹していた彼を引きずり込むために、彼の愛するダラーズに波乱の種を巻いたのも。園原杏里という保険をかけながらも、危険の渦中に放り込んだのも。
それを後悔なんてするわけがない。
折原臨也は人間が進化していく様を愛しているのだから。その過程で失われたもの、遺った痛みなど、偲ぶに値しないと信じているのだから。
ましては、守ってやりたいなどと。
キングを守るためにプレイヤーが相手の駒をもぎ取ってしまうのは反則だ。
盤上に残されたたった一つのキングだけを眺めても、キングはプレイヤーを認識すらしないのに。
怖いのは憎まれることでも恨まれることでもなく、君の傷を見て、痛みを感じる自分、傷ついた君を目の当たりにして、後悔する自分を知ること。
それは、人間全てを愛する折原臨也を殺す。
それなのに、その恐怖と危機感を遙かに凌駕する感情が臨也を苦しめる。
会いたい。
好奇心に輝く顔を見たい。
俺の名前をつむぐ声を聞きたい。
こわごわと距離感を図りながらも、いっそ清々しいほど辛辣な言葉。
フォルダなんて開かなくても、次々と脳裏に蘇る姿。もう彼だけで世界が埋め尽くされてしまえばいいと思いそうなほどの鮮やかさで。
自身の体温でぬるくなった端末を握りしめる。力を込めすぎた指先に感じる痺れごと、強く強く振り払う。
違う。そんなことがあっていいはずがない。
少しでも受け入れれば、愛だと信じて人間に捧げてきた行為すべてが虚空に呑まれる。
後戻りなんでできやしないのだから。
それでも、夢のなかで触れた唇の、幻の温もりさえ、忘れることができない。
無意識に伸びた手を有意識が止めようとして、目が覚めた。馴染んだスプリングの感触、カーテン越しの街明かり、それらを認識して浮かぶ失望感。疑いようのなく新宿の自室だ。池袋からは遙か遠くに位置している。
癖のような状況把握の後、早鐘を打つ心臓を宥めつける。汗で湿った頭皮が気持ち悪い。起き上がりながら、肌に貼りつくシャツを脱ぎ捨てる。ベッドから離れる、常人なら寝起きとは思えないほど俊敏な動作も、折原臨也にとっては当然のこと。休養から活動にスイッチが切り替わる。
瞬時のそれができなければ今日一日すら生存が危うい。それが彼が選んだ立ち位置。
そして、その一日をこれからの続けていくのなら、
見ていた夢は忘れた方が身のためだ。
小型冷蔵庫を開き、ペットボトルを取り出す。ちゃぷんと透明な水が揺れた。乾いた身体に流しこむ飲料水の心地良さに、追ってくる面影が煩わしい。
愉快で軽快な切り替えしの言葉。
あどけなさの混じる口調と声。
小さくうずくまる後ろ姿。
涙に濡れていたあの頬。
時折思い出したように携帯電話を鳴らす着信者の名前すら。
それに付随する感情ごと深海に沈めてしまえ。
薄闇を液晶が照らす。無機質な音をたてて、PCが起動していく。その待つ時間は、嫌いではない。プレゼントの包装を少しずつ破いていく期待感と焦燥感に、心が踊る。その裏腹、冷静な思考は、プレゼントの中身の予測と推測を繰り広げている。
チャットを開いて、予想していた結果に落胆する。
田中太郎は今日も来なかった。
手慣れた一人二役を惰性で続けながら、ログを開く。内緒モードの中の、田中太郎ではなく、帝人としての言葉。そこに見え隠れする臨也を信じる無邪気さに、自嘲する。
次々と開いていく画像データに映る表情は、緊張にこわばり、冷たい印象を与える。もっと、ふにゃりと気の抜けるように笑う子だった。距離感を決して忘れない冷静さが顔をのぞかせるときもあったけれど。
仕組んだのは自分だ。
傍観者に徹していた彼を引きずり込むために、彼の愛するダラーズに波乱の種を巻いたのも。園原杏里という保険をかけながらも、危険の渦中に放り込んだのも。
それを後悔なんてするわけがない。
折原臨也は人間が進化していく様を愛しているのだから。その過程で失われたもの、遺った痛みなど、偲ぶに値しないと信じているのだから。
ましては、守ってやりたいなどと。
キングを守るためにプレイヤーが相手の駒をもぎ取ってしまうのは反則だ。
盤上に残されたたった一つのキングだけを眺めても、キングはプレイヤーを認識すらしないのに。
怖いのは憎まれることでも恨まれることでもなく、君の傷を見て、痛みを感じる自分、傷ついた君を目の当たりにして、後悔する自分を知ること。
それは、人間全てを愛する折原臨也を殺す。
それなのに、その恐怖と危機感を遙かに凌駕する感情が臨也を苦しめる。
会いたい。
好奇心に輝く顔を見たい。
俺の名前をつむぐ声を聞きたい。
こわごわと距離感を図りながらも、いっそ清々しいほど辛辣な言葉。
フォルダなんて開かなくても、次々と脳裏に蘇る姿。もう彼だけで世界が埋め尽くされてしまえばいいと思いそうなほどの鮮やかさで。
自身の体温でぬるくなった端末を握りしめる。力を込めすぎた指先に感じる痺れごと、強く強く振り払う。
違う。そんなことがあっていいはずがない。
少しでも受け入れれば、愛だと信じて人間に捧げてきた行為すべてが虚空に呑まれる。
後戻りなんでできやしないのだから。
それでも、夢のなかで触れた唇の、幻の温もりさえ、忘れることができない。