鬼哭
潮風が海面を吹きぬけて、帆船の甲板に立つ元親の髪を乱していく。
空は曇りなく晴れ、太陽は眩しく東の空に輝き、それを背にした元親は蹴りつけるように船首の縁に片膝を立てた。そして威勢よく碇槍を振り上げ、高らかに言い放つ。
「野郎共ォ、行ってくるぜえ!」
船上にある元親の眼下には、波打ち際まで目一杯に並んだ部下たちが思い思いに腕を振り上げ、歓声をあげて飛び跳ねる姿があった。アニキ、アニキィ、行ってらっしゃいっす!でっかいお宝、持って帰ってきてくださいよ!口ぐちに笑いながら野太い声援を送る部下たちに、元親も牙を見せて笑い返した。
「おうよ!てめえらの荒肝抜いてやらあ、期待して待っとけよ!」
「了解ッス!俺たちも負けねえっすよ、アニキが考えた例の新兵器、完成させちまいますからね!」
「あ、おい!出来あがっても一番に動かすのは俺だぞ野郎共、わかってんのか!」
途端に舳先から身を乗り出して、慌てて言い募る愛すべき頭領を見上げ、今回ばかりは陸に残る海の男たちは白々しく嘯く。
「どうっすかねえ、そりゃあ出来ちまったらわからねえっすよ」
「俺、あれが完成したら、鶴姫ちゃんとこ誘いに行っちゃったりして……!」
「うお、それアリだな!交代制にしねえか?」
わいわいと楽しげに笑う男達を見て、船上の元親は大げさに頭を掻き回した後に、にやりと笑った。
「ったく、どいつもこいつも譲りゃしねえ」
「そりゃあ俺たち、欲しいもんは奪ってなんぼっすから!」
声を合わせて返してくる男たちは、満面の笑みを浮かべていた。
元親はその様子を見て、少し眼を細めた。戦乱の世は長く永く、疲弊と悲観が絶えず漂っている。だがここには、少なくとも元親の前には、こうして笑顔で阿呆ばかりする苦楽をすべて共にしてきた仲間がいる。
「そういうわけですからまあ、でっかいお宝目指しつつ!あんま寄り道しねえで早めにきっちり帰ってきてくださいよ、アニキ」
「でねえとマジで使っちまいますからね、新兵器!」
「ああ、わぁったよ!」
元親は拳を振り上げてそれに応える。男たちもそれに対して二度三度と腕を振る。
「それまで留守は頼むぜ、野郎共!」
「任せてくださいっす!」
笑って、見送り、見送られた。
そうして帰ってきた時には何もかもが変わり果ててしまった。
遠く視界に映る故郷を沖から眺めた瞬間に、船上の誰もが異変に気づいた。細く立ち昇る黒煙、砕かれて剥きだしになった山肌が眼に映り、全身の膚が粟立つ。
地を這うような重い沈黙が、遠目に見える懐かしい場所を支配しているのだと悟った。
心臓を素手で掴まれたような感覚に元親は息を呑んで押し黙り、同じく異常を感じた船上の部下たちもまた、息を殺して故郷を見遣る。それに気付いた元親はすぐさま自分の動揺を押し隠し、率先して船を操り最大推力で己が国へ向かった。船が着くまでの間は、全員が突如悪夢に放り込まれたような心持を味わっていた。
そして辿り着いた場所に広がっていたのは、悪夢などという生易しいものではなかった。
かつてそこに在ったもの総てが踏み荒らされ、抉られ、破砕された一面に広がる焦土。
元親の指示を待つまでもなく、船を降りた全員が知った名を叫びながら駆け出した。
噴き出す炎はどれだけ長い間燃えていたのか、今も立ち昇っている黒煙などほんの残り滓に過ぎないのだとひと目でわかるほど徹底的に根城が焼き払われている。立ち竦む視界に映るものは累々と地に倒れ伏す、つい先日まで共に笑いながら生きてきた者たちの残骸。
骸に刻まれた傷口はすでに腐り落ち、波打ち際に倒れた何人もの人間はすでに元の形もわからぬほどに崩れ、短くはない間放置されていたのだと知れた。
元親は、間に合わなかったのではなかった。
間に合うことなど考えられぬ程とうの昔に、帰る場所は壊滅していた。
そしてそれを知らぬままに、意気揚々と船旅を楽しんでいた―――
早く帰って来てくださいよ、アニキ。
「お、お……ぁああ……ッ」
人間のものとは思えない呻き声をあげ、焦土に膝をついた元親は地面に倒れ伏す骸を抱き上げる。顔が煤け、もう誰ともわからない男のすえた臭いのする胸元に顔を押し当てて、獣のように叫び続けた。
誰が、誰が誰が誰が誰が!
仇を求めて彷徨う慟哭と憤怒に真っ赤に染まった隻眼が、その色を捉えた。
黄金色の。
元親は一瞬、眼にしたそれの意味がわからなかった。煤けて破れていても、その色は気付いてしまえば黒ばかりのこの世界でいやに眼を引いた。茫然として辺りを見渡せば、そこかしこに落ちているその色の、その旗の、その記された紋の意味は。
「―――や、す……」
天下を、
天下を統べるのだと。
泰平の世を作るのだと言っていた、懐かしい幼い顔が、脳裏でくすぐったげに笑う。
――天下への道は修羅の道、だがワシは為さねばならんのだ。そう言うと、笑う奴の方が、多いんだがな。
だからおめえに認められたのはすごく、…すごく嬉しいんだ。
元親。
その幼い顔に秘められた決意の重さを知っていた。だから元親は彼を侮らずに、天下の舵取りすら任せようと、そう思ったのだ。
それが、
修羅の道を往き修羅の道に取り込まれ鬼畜生と成り果てたとでも?
元親は亡骸を丁寧に地へ戻してふらりと立ち上がり、近くに落ちていた旗の傍で立ち尽くす。そして旗を凝視したその顔に、ふと引き攣った笑みを浮かべた。
次の瞬間、片手で振るった碇槍で旗を貫く。
地面までもを深く抉った槍先が瞬時に炎を吐いて、徳川の旗は見る間に黒く染まっていった。
「はっ……」
大したもんだ、大したもんじゃねえかよ天下ってのは!
元親は心の内で吐き捨てた。
こうまで人を狂わせてなお誰の手にも渡らずに、捕えてみせろと囁き続ける、性質が悪い戦国の世の至宝。日ノ本全土の覇者となるその栄光。天下へ向かって蠢く無数の武将を横目で見ながら、海を愛し稚気を愛し自由を尊んだ元親だからこそ、「それ」の磁力がどれほど強いか知っていた。天下をこの手に、そう腕を伸ばしては死んでいった、誰も彼もが。魔王が、覇王が、そしてお前もまたその道を往くのか。
「要らねえよ俺は、んなもんは要らねえよ!要らねえんだよ!―――家康!」
元親は怒りと共に仇の名を絶叫した。
「こんな卑怯な真似をしてまで欲しいのか!お前は変わっちまったってのか!獲れるもんは全部手にしねえと気が済まねえとでも言うのかよ!畜生、―――畜生!」
元親は生まれて初めて怨嗟にその身を浸らせた。
「あ、アニキ……」
咆哮を聞き、それぞれ駆けまわっていた共に旅をしていた仲間たちが、元親の元へ集まり始める。
「駄目っす、駄目なんすよ……誰も、どこにも。隠れ通路にだって、どこにだって、誰か、いやしないかって思って俺……ッでも、駄目でしたッ……」
いっそこの心臓を取り出して握りつぶしてしまえば良い。
誰も逃げはしなかった、隠れもしなかった。
その指示を出すべき元親は陸になく、そして誰もが次々に武器を取ったのだ。
(留守は任せろって、言っちまったしなあ)
不利な形勢になってもなお、きっと震えながら、笑いながら言っていた。
空は曇りなく晴れ、太陽は眩しく東の空に輝き、それを背にした元親は蹴りつけるように船首の縁に片膝を立てた。そして威勢よく碇槍を振り上げ、高らかに言い放つ。
「野郎共ォ、行ってくるぜえ!」
船上にある元親の眼下には、波打ち際まで目一杯に並んだ部下たちが思い思いに腕を振り上げ、歓声をあげて飛び跳ねる姿があった。アニキ、アニキィ、行ってらっしゃいっす!でっかいお宝、持って帰ってきてくださいよ!口ぐちに笑いながら野太い声援を送る部下たちに、元親も牙を見せて笑い返した。
「おうよ!てめえらの荒肝抜いてやらあ、期待して待っとけよ!」
「了解ッス!俺たちも負けねえっすよ、アニキが考えた例の新兵器、完成させちまいますからね!」
「あ、おい!出来あがっても一番に動かすのは俺だぞ野郎共、わかってんのか!」
途端に舳先から身を乗り出して、慌てて言い募る愛すべき頭領を見上げ、今回ばかりは陸に残る海の男たちは白々しく嘯く。
「どうっすかねえ、そりゃあ出来ちまったらわからねえっすよ」
「俺、あれが完成したら、鶴姫ちゃんとこ誘いに行っちゃったりして……!」
「うお、それアリだな!交代制にしねえか?」
わいわいと楽しげに笑う男達を見て、船上の元親は大げさに頭を掻き回した後に、にやりと笑った。
「ったく、どいつもこいつも譲りゃしねえ」
「そりゃあ俺たち、欲しいもんは奪ってなんぼっすから!」
声を合わせて返してくる男たちは、満面の笑みを浮かべていた。
元親はその様子を見て、少し眼を細めた。戦乱の世は長く永く、疲弊と悲観が絶えず漂っている。だがここには、少なくとも元親の前には、こうして笑顔で阿呆ばかりする苦楽をすべて共にしてきた仲間がいる。
「そういうわけですからまあ、でっかいお宝目指しつつ!あんま寄り道しねえで早めにきっちり帰ってきてくださいよ、アニキ」
「でねえとマジで使っちまいますからね、新兵器!」
「ああ、わぁったよ!」
元親は拳を振り上げてそれに応える。男たちもそれに対して二度三度と腕を振る。
「それまで留守は頼むぜ、野郎共!」
「任せてくださいっす!」
笑って、見送り、見送られた。
そうして帰ってきた時には何もかもが変わり果ててしまった。
遠く視界に映る故郷を沖から眺めた瞬間に、船上の誰もが異変に気づいた。細く立ち昇る黒煙、砕かれて剥きだしになった山肌が眼に映り、全身の膚が粟立つ。
地を這うような重い沈黙が、遠目に見える懐かしい場所を支配しているのだと悟った。
心臓を素手で掴まれたような感覚に元親は息を呑んで押し黙り、同じく異常を感じた船上の部下たちもまた、息を殺して故郷を見遣る。それに気付いた元親はすぐさま自分の動揺を押し隠し、率先して船を操り最大推力で己が国へ向かった。船が着くまでの間は、全員が突如悪夢に放り込まれたような心持を味わっていた。
そして辿り着いた場所に広がっていたのは、悪夢などという生易しいものではなかった。
かつてそこに在ったもの総てが踏み荒らされ、抉られ、破砕された一面に広がる焦土。
元親の指示を待つまでもなく、船を降りた全員が知った名を叫びながら駆け出した。
噴き出す炎はどれだけ長い間燃えていたのか、今も立ち昇っている黒煙などほんの残り滓に過ぎないのだとひと目でわかるほど徹底的に根城が焼き払われている。立ち竦む視界に映るものは累々と地に倒れ伏す、つい先日まで共に笑いながら生きてきた者たちの残骸。
骸に刻まれた傷口はすでに腐り落ち、波打ち際に倒れた何人もの人間はすでに元の形もわからぬほどに崩れ、短くはない間放置されていたのだと知れた。
元親は、間に合わなかったのではなかった。
間に合うことなど考えられぬ程とうの昔に、帰る場所は壊滅していた。
そしてそれを知らぬままに、意気揚々と船旅を楽しんでいた―――
早く帰って来てくださいよ、アニキ。
「お、お……ぁああ……ッ」
人間のものとは思えない呻き声をあげ、焦土に膝をついた元親は地面に倒れ伏す骸を抱き上げる。顔が煤け、もう誰ともわからない男のすえた臭いのする胸元に顔を押し当てて、獣のように叫び続けた。
誰が、誰が誰が誰が誰が!
仇を求めて彷徨う慟哭と憤怒に真っ赤に染まった隻眼が、その色を捉えた。
黄金色の。
元親は一瞬、眼にしたそれの意味がわからなかった。煤けて破れていても、その色は気付いてしまえば黒ばかりのこの世界でいやに眼を引いた。茫然として辺りを見渡せば、そこかしこに落ちているその色の、その旗の、その記された紋の意味は。
「―――や、す……」
天下を、
天下を統べるのだと。
泰平の世を作るのだと言っていた、懐かしい幼い顔が、脳裏でくすぐったげに笑う。
――天下への道は修羅の道、だがワシは為さねばならんのだ。そう言うと、笑う奴の方が、多いんだがな。
だからおめえに認められたのはすごく、…すごく嬉しいんだ。
元親。
その幼い顔に秘められた決意の重さを知っていた。だから元親は彼を侮らずに、天下の舵取りすら任せようと、そう思ったのだ。
それが、
修羅の道を往き修羅の道に取り込まれ鬼畜生と成り果てたとでも?
元親は亡骸を丁寧に地へ戻してふらりと立ち上がり、近くに落ちていた旗の傍で立ち尽くす。そして旗を凝視したその顔に、ふと引き攣った笑みを浮かべた。
次の瞬間、片手で振るった碇槍で旗を貫く。
地面までもを深く抉った槍先が瞬時に炎を吐いて、徳川の旗は見る間に黒く染まっていった。
「はっ……」
大したもんだ、大したもんじゃねえかよ天下ってのは!
元親は心の内で吐き捨てた。
こうまで人を狂わせてなお誰の手にも渡らずに、捕えてみせろと囁き続ける、性質が悪い戦国の世の至宝。日ノ本全土の覇者となるその栄光。天下へ向かって蠢く無数の武将を横目で見ながら、海を愛し稚気を愛し自由を尊んだ元親だからこそ、「それ」の磁力がどれほど強いか知っていた。天下をこの手に、そう腕を伸ばしては死んでいった、誰も彼もが。魔王が、覇王が、そしてお前もまたその道を往くのか。
「要らねえよ俺は、んなもんは要らねえよ!要らねえんだよ!―――家康!」
元親は怒りと共に仇の名を絶叫した。
「こんな卑怯な真似をしてまで欲しいのか!お前は変わっちまったってのか!獲れるもんは全部手にしねえと気が済まねえとでも言うのかよ!畜生、―――畜生!」
元親は生まれて初めて怨嗟にその身を浸らせた。
「あ、アニキ……」
咆哮を聞き、それぞれ駆けまわっていた共に旅をしていた仲間たちが、元親の元へ集まり始める。
「駄目っす、駄目なんすよ……誰も、どこにも。隠れ通路にだって、どこにだって、誰か、いやしないかって思って俺……ッでも、駄目でしたッ……」
いっそこの心臓を取り出して握りつぶしてしまえば良い。
誰も逃げはしなかった、隠れもしなかった。
その指示を出すべき元親は陸になく、そして誰もが次々に武器を取ったのだ。
(留守は任せろって、言っちまったしなあ)
不利な形勢になってもなお、きっと震えながら、笑いながら言っていた。