鬼哭
見たこともない形相の元親に、男達が恐る恐る問い掛ける。
「アニキ、これ、この旗……まさか……」
「野郎共」
元親は、静かな声音で呼びかけた。
その平坦な声の奏でる悲痛に、全員が息を呑んで姿勢を正す。
「まずはよ、……こいつら、綺麗にしてやらねえとな。全員な、集めて……燃やしてよォ……海に還してやろうぜ」
ぐ、と何人かが涙を堪えて呻く。
「は、はいッ。アニキ」
「そしたらよ、野郎共……仇を討ちに行くからな……!」
男たちは一斉に腕を振り上げ、泣き叫ぶように応、と答えた。元親はその叫びを背に、宙を睨み据えて言い放つ。
鬼の住処を荒らしたこと、地獄の底で後悔させてやる。
「……それが、貴様の慟哭か」
静かな問いかけに、元親は黙って頷くに留めた。それほど事細かに説明したわけではない。それでもあの日を思えば家康と、何よりも自分自身への怒りで視界が赤く染まる。その怒りを力へと変えて突き進んだ末に、今、元親の前には凶王と呼ばれる男が座している。
あの後、元親たちが仲間の葬送を終えいよいよ仇討ちをと意気込んだ時に、折よく毛利から停戦の申し入れがあった。信用のできない相手ではあるが、四国と同じく中国も奇襲を受けたとあっては確かに互いに争っている場合ではない。元親はその申し入れを受け入れた。
「本当に、変わっちまったのかよ……」
貪欲に進撃と奇襲を行っているらしい徳川軍に、不意に呟いてから首を振る。どうにも昔の懐かしさを捨て切れずに、たまにこうしたことを口にしては、元親は自分の甘さを呪った。
そうだ、変わっちまったんだ。そういうことだ。
言い聞かせるように繰り返すたび黒々とした焔が全身を焼き、西海の鬼を名乗る男は、まさしくこの世のものとも思えない鬼の形相をするようになっていた。
激しい怒りを共にしながらも、一方で部下たちはそんな元親を案じてもいた。
仲間の仇は、討つ。
だがそれと引き替えに、太陽と海を背に豪快に笑う、あの彼らが愛した頭領の姿を失うのは嫌だ。アニキ、たまには休んでくださいと言っても元親は聞かなかった。鬼を――正確にはそれに成り果てたと思い込んでいる男を追う元親もまた、渾名通りに鬼の姿を体現していたのだ。
今の徳川へ対抗するには、敵を同じくする石田軍と手を結ぶのが上々の策。停戦の折、毛利は珍しくもそんな助言めいた言葉まで寄こした。奴もまた、中国の奇襲に憤っているのだろう。あの薄ら寒い男の発案に乗るのは良い気分ではなかったが、確かにそれは有効な手立てに違いない。
大阪城へ向かい、凶王と手を結ぶ。
そうと決断を下した元親に対して異論は出なかったが、誰かが不安げに言った。アニキ、凶王っておっかねえ話しか聞かねえすよ、大丈夫っすかね。だが他に手がないのだと、弱気な言葉を一蹴する元親の内心にも燻る懸念があったのは事実だ。
豊臣の忘れ形見。
徳川家康への憎しみの権化。
聞こえる話が総て事実とは限らないが、戦場での無慈悲な振る舞いに関しては幾度も耳にしたことがあった。
まあ、いい。本気で信用ならねえ奴なら俺ァ一人でやるまでよ。
そうと割り切って乗り込んだ先で、元親は出逢った。
同じ形をした傷跡に。
威容を誇る大阪城は大いなる死の影を未だに引き摺り、辺り一帯を闇へ闇へといざなう異様な翳りを帯びていた。或いはそれは、元親の眼前に立つ男がその身に溜めこんだ闇そのものなのかもしれない。昏い空間でただ一人、月を背にした凶王は、見る者の息さえ止める冷たい眼差しを元親へ向ける。
「……徳川家康が憎いと言ったな」
それを真っ向から睨み返して、元親は唸るような低い声で答えた。
「ああ。あいつは……仲間の仇だ。許せねえ。あいつは、俺との約束を破り人としての道を踏み外したんだ」
唇を噛み、仇を睨むように凶王を眼で貫く。
「あいつは変わっちまった…俺はそれが許せねえんだ!」
「……変わった?」
だが凶王は元親の激しさに対して呑まれた気配もなく、ただ一言呟いただけだ。
「そうではない」
怪訝な顔を向けた元親の先で、突然に憤怒の形相を浮かべた凶王が鋭く叫ぶ。
「そうではあるまい!見抜けなかった、見過ごしたのだ、奴の空々しい妄言の下の穢れた本心をな!!――愚かしいぞ長曾我部、仇と言いながらその実貴様はまだあの男を郷愁の眼で見ている……!貴様の憎悪などぬる過ぎる、家康を殺すのは私だ……私なのだ!」
宣告と同時に放たれた刃を、咄嗟にかざした槍で受ける。見た目に反して重い斬撃に、鋭い金属音が反響した。
「ぬるいだと?だったらあんたに俺の心をわからせてやろうじゃねえか…!」
返す元親もまたその声音に確かな憎悪を乗せていた。身体の奥底から噴き上がるこの怒りを、ぬるいだなどと言わせてたまるか!憤りと共に碇槍を振るう元親に対し、凶王もまた譲りはしない。
この心は死んだのだ、秀吉様を奪われた悲しみに勝るものなどありはしない、
見るがいい、聞くがいい、貴様の中に、これほどの憎悪があるとでも!
凶王の繰り出す斬撃は凄まじく、元親の碇槍は受け流されては弾かれる。焔を纏った穂先にも躊躇せずに飛び込み、その軌道を見切って刃を放つ。細え身体で大したもんだ、さすがに凶王と呼ばれるだけのことはあると、驚嘆すらしながら次々襲い来る刃の向こうの男を見る。
その男は怒りも憎しみもその影の悲嘆も、何も隠しはしなかった。切り刻まれた内臓を露出させ、引き摺って歩くような生々しい姿を見せつけながら叫んだ。
「貴様の、……貴様の憎悪など私に比べれば……!」
この憎しみに重いも軽いもあるまい。
だが内心をそのままに映しだす、その眼が、元親の憎しみで凝り固まった心をこじ開けて慟哭を叩きつけた。
「……ああ、」
元親は、振り下ろされた刃を槍で受ける。交差する得物越しに間近に迫った眼を見つめて、元親は思わず呟いた。
「あんたの眼は、真っ直ぐだなァ……」
一瞬虚を衝かれたような顔をした凶王は、さらに歪んだ形相を晒した。
「戯言を……!」
「ふざけてるわけじゃねえさ。……ああ、あんたについて行くのは、悪かねえな」
元親はその時に初めて、心底からそう思った。
この、痛々しい程の憎しみを撒き散らす男と行ってみるのも悪くはない。
確かに信じたはずの者すら容易く非道に身を染めるこの世の中で、凶王はその非道を隠すことすら考えず、己の嘆きも憎しみも総て曝け出したまま、真っ直ぐに仇を見据えて走り続ける。
なら同じ色に染まった内臓抱えて、その横に立ってやろうじゃねえか。
元親は腹の底に力を入れて、一気に凶王の刀を弾き返した。空中を吹き飛ばされながら、器用に着地をした男はさらに警戒と緊張を高めた顔で刀を構える。
それに対し、元親は碇槍を勢いよく地面に突き立てることで応えた。突然の武器を手放す行為に訝しげな眼を向けた三成へ、ひらりと片手を振って見せる。
「こんなもんでいいだろ?俺はあんたの足を引っ張りゃしねえよ。……あんたのことは、よくわかった。あんたも辛い目にあったんだな……」
「うるさい!知ったような口をきくな……!」
眉を逆立てて怒鳴る三成を凪いだ眼で見つめて、元親は静かに告げる。