彼の笑顔が消えるとき
部屋で鏡の前でにっと口角を上げる。
気持ち悪い表情だ。
「気持ち悪い。」
自分の心情を現したような声が聞こえて、見ると波江が冷めた視線を送っていた。
「…愛想笑いは得意だったんじゃないの?」
「・・・愛想笑い、は得意だったんだけどねぇ。」
あの子の前じゃ上手くいかない。
愛想笑いにならない。
人通りの多い街中で3分ほど待つと、向こうから帝人くんが歩いてきた。
よし、予定通りだ。
(この前はごめんね、急用が入ってさ。お詫びにこの前より美味しいケーキ屋に案内してあげるよ?行かない?)
頭の中で何度も何度もリピートしたフレーズをまた繰り返す。
自然に、そう自然に声をかければ良い。
出来たら笑顔も付けて。
そう思って出来れば苦労はしない。
醜く緩みそうになる口元をキッと引き締めた。
「帝人くん?」
声をかけると、帝人くんが驚いたように顔を上げた。
俺を見て、もっと驚いたように目を見開いて、すぐに下を向いてしまう。
・・・様子がいつもと違う。
「偶然だね、この前はごめんね?」
「いえ、」
帝人くんが舌を向いたまま首を振る。
ん?どうして俺の方を見てくれないんだろう。
「あー…お詫びに、って言っちゃなんだけど、この前より美味しいケーキ屋に案内するよ?どう?」
「いえ、大丈夫です!…僕、失礼します。」
俺の誘い文句が言い終わる前に帝人くんは慌てた様にそう言って、止める間もなく俺の横を通り抜けてった。
・・・。
「ハハッ。」
帝人くんが居なくなって、1人で立ちつくしたまま俺は思わず笑った。
俺の横を通ったサラリーマンが怪訝そうに俺を見たけど、どうでもいい。
さらっと断られた。
今までこんなことは無かった。
つまりは、そう、きっとばれたんだろう。
「やっぱこの前かなー?」
誰に言うでもなく呟いて、俺は人通りの多い歩道のど真ん中で蹲った。
通行人たちが邪魔そうに俺を避けるのが気配でわかる。
いいでしょ、俺は今大好きな子にフられた哀れな男なんだから。
一目ぼれ、なんて絶対無いと思ってたし、ましてやそれを自分が体験することになるなんて思いもしなかった。
初めて見た瞬間に惹きこまれた、その屈託なの無い笑みに。
帝人くんと話すだけで、まるで面白いことを始める前みたいな高揚感が俺を包んで、最初は楽しくて仕方が無かった。
でもだんだん、それじゃ足りなくなる。
無い物強請りは俺の十八番だった。
最初は造れていた『愛想笑い』が、帝人くんの前じゃ崩れる。
だって俺の意識とは無関係に頬が緩むんだ。
止めようがないこの思いを抑えきれなくなって、俺は表情自体を消そうとした。
それも最初は四苦八苦だったよ。
奇妙に歪む表情を取り繕うのに、俺がどれだけ必死だったか、帝人くん、君は気付いてる?
ただでさえ帝人くんは俺を喜ばすことが上手で、帝人くんの一挙一動に俺は不自然に反応してたよね、それもばれてるかな?
そのうち消えて無くなるんじゃないかと思ってたのに、思いはどんどん大きくなった。
もう、どうしようもないくらい。
ばれるんじゃないか、と、不安を抱えながらも、一緒に居たかった。
自分が案外健気な人間だと気付かせてくれたのも君だ。
「ふふ、」
人ごみの中蹲ったまま肩を震わせる。
ああ、笑えるね、ほんと。
俺の気持ちを知って、あんな風に避けられるとは思わなかった。
あまりにも突然の拒絶に、悲しみもわかないよ。
俺はぐっと身体を伸ばして立った。
手首足首を回して、軽く背筋を伸ばす。
帝人くんが歩いてった方向を見て、思わず笑みが零れた。
逃すわけ、ないでしょ?
走るのなんて、何年振りだろう。
肺に、容量オーバーの空気が入り込んでむせたくなった。
帝人くんの後ろ姿はすぐに見つかった。
肩を落として歩いてるのはなんで?
俺の誘いを断ったのを悪いなぁ、とか思ってる?
知らないよ?俺はその優しさに漬け込む悪い男だからね。
自然に口角が上がった。
息が上がって苦しかったはずなのに、いつのまにか高揚感になってる。
走ってるせいか、別のせいか、心臓が破裂しそうな勢いで高鳴ってる。
口角を上げたまま、俺は表情を消す余裕も無くて、そのみっともない笑みのまま帝人くんの肩をグイッとひいた。
帝人くんがバランスを崩しながら驚いた表情で身体をこっちへ捻った。
それを抱きとめて耳元で「好きだよ。」と囁く。
帝人くんの黒い目が大きく見開かれていくのを見て、その中に満面の笑みを浮かべる自分が居るのに気が付いた。
ああ、くそ、、俺らしくない。
作品名:彼の笑顔が消えるとき 作家名:阿古屋珠