チョコレート・レクイエム
「一人で悩む必要はない、私に言ってみなさい」
ドア越しに聞えて来る監督の声。
ノックしようと上げた手が、宙を切った。
部誌を取りに来た榊の部屋の前に立ったまま、跡部は入ることも、その場から立ち去ることもできなかった。
いったい部屋の中にいる榊の相手は誰なのだろう。
聞えてくる声は榊のものだけで、他の声は聞えなかった。
普段他人のことには興味を示さない跡部には珍しく、部屋の中の人物が気になった。
『チョコレート・レクイエム』
じっと耳を澄ましていても、やはり榊の声しか届いて来ない。
いつでも構わないから、ここに来なさい……。
そう榊が告げた後、微かに足音が聞こえた。
跡部は、慌てて柱の陰に隠れる。
自分はいったい何をしているのだろう。
まるで、うわさ好きのクラスの女じゃねえかと、左側の口角を上げて跡部は苦笑いをした。
ドアがゆっくりと開く。
長めの黒髪が顔の表情を隠していたが、ちらりと見えた切れ長の瞳が。
赤く潤んでいるような気がした。
忍足……。
ドキリとした。
ひょうきんな関西人独特な、いつもの雰囲気は、忍足のどこからも感じられなかった。
それがどうしたと言うのだ。
しかし。
跡部はどうしても忍足が気になって。
榊の部屋から出て来た忍足の後をつけた。
跡部の想像通り。忍足の足は、部室とは反対の裏門に向かっていた。
どうも部活は、さぼるつもりらしい。
なら。やはり。テニス部部長として、放っておくことはできない。適当な理由をつけて、自分の行為を正当化した。
今日は土曜日なので、普段部活はオフの日なのだが、試合が近いため、午後からは部活の予定だ。。
跡部は携帯を取り出すと、宍戸に少し遅れるので各自のメニューをこなしておくように伝えてくれとメールを打った。
2月中旬。立春は過ぎていたが、今にも空から白いものが落ちてきそうな天候は、コート無しで歩くのには寒過ぎる。
跡部は部室に置いておこうと、手にしていたコートを羽織った。
とぼとぼと歩く忍足は、氷帝の近くにある、まだ緑を多く残している鄙びた感じの公園に向かっているようだった。
そのスポットだけが、都会の喧騒から取り残されている。
そう言えば、静寂な雰囲気が好きで、忍足は時々気分転換に行くと言っていたのを思い出した。
忍足は躊躇することなく、公園の中に入って行った。
その後をこっそりと追う。
凍えそうな天候のせいだろう。公園の中に忍足以外、人影を見つけることは出来なかった。
カモが泳いでいる池の前で、忍足の足が止まった。
水面を見つめているのか。
じっとしたまま動かない。
もちろん忍足が何を考えているのかなど、跡部には想像もつかなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
コートを着ていても、足先の感覚が無くなっている。
忍足は全く動こうとせず、じっと水面を見つめたままだ。
跡部はとうに我慢の限界だった。
足音を隠すことなく歩き始めたが、それでも忍足は気づかない。
必死で自分を取り戻そうとしている。
跡部にはそんな風に見えた。
小刻みに震える背中。
忍足が驚かないように、小声で声を掛けた。
「オイ」
同時に、跡部は自分が着ていたコートを脱ぐと、忍足の背中に掛けてやる。
振り向いた生気のない顔。
「奏……」
びっくりしたのは、跡部の方だった。
かなで?聞き覚えのない言葉……名前なのだろうか?
誰かと、間違えた?
「こんなところでなにしてんだ?」
「……跡部か、……ごめん」
「謝るだけじゃ、意味わかんねえだろ。部活さぼってこんなところで一人なにしてんだ?」
「……」
「かなでっていう女でも待ってたか」
「ちゃうよ!奏ではちゃう。……ただなんとなくや。跡部は無いんか、部活をさぼりたくなる日」
跡部が口にした奏と言う名に忍足は明らかに動揺していた。
ただなんとなく、な訳ないだろとは言えなかった。
虚ろな瞳。
跡部の方を確かに見ているのに、焦点は合っていない。
それ以上は忍足を追い詰める気がして跡部は問うのをやめた。
今、目の前にいる忍足は。
入学式の日に、初めてコートで対峙した時から知っている忍足では無かった。
意思を持たない漆黒の瞳が、ただ深淵だけを映していた。
「こんな寒い日にコートも着ねえで、何時間も突っ立ってる奴がいるかよ、アーン」
「えっ、跡部、いつから俺んこと見とったん?」
こわばった表情。小刻みに震える身体で問う。
「悪いが、おまえが学校を出た時からついて来た」
「……跡部」
「こんなに冷え切って、震えてるじゃねえか」
「……俺は大丈夫やから。コート脱いだら、跡部が風邪引いてしまうわ」
「俺はこれくらいで、風邪引く軟な身体じゃねえ」
いつものポーカーフェィスからは想像できない怯えた表情(かお)。
なぜだか、わからない。
護ってやりたいと思った。
気付いた時は。
忍足を抱きしめていた。
泣きそうな顔をしてるから?
「何があったか知らねえけど、泣きたい時は泣けばいい」
「……跡部。俺、跡部の前では泣かれへん」
跡部の前で……。忍足が口にした言葉の意味を、その時はまだ、考えようとはしなかった。
今一歩、自分が忍足の心の中にまで踏み込んでいいのか、跡部自身もわからなかったから。
だから。なぜとも聞かなかったし。
忍足も話さなかった。
ただ、縋るように、跡部の胸の中に顔を沈めた。
跡部はその背中を優しく撫でてやっただけ。
「バレンタインの前日でめんどくさいから、今日は部活さぼるか」
バレンタイン当日が日曜なので、今朝から何度もチョコを渡された。
いちいち断るのも面倒くさいから、ホワイトデーに事務的にお返しをすることで、済ますことにしている。
今年は日曜日で助かったと思っていたのに。
そんなに甘くはなかった。朝から辟易していたところだ。
跡部ほどではないにしても、女の子に人気のある忍足も、同じような状況だろう。
部活を騒がせるのは忍びないから。さぼりの理由にちょうどいい。
宍戸や向日からは、呆れられそうな理由だが。
跡部らしいと思われるだろう。
しかし。そんな理由を使う必要がなくなった。
「帰るぞ」
「ああ」
か細い声で答えた忍足の顔には、血の気が無くて。
「忍足、顔色悪いぜ」
「俺は大丈夫やから」
コートを跡部に返そうと、肩に手を上げた身体が崩れ落ちていく。
「忍足!!!」
力が抜けて倒れる忍足の、身体を支えながら何度もその名を呼んだ。
***********************
「気がついたか?」
「……跡部、俺」
「公園で倒れたから、俺の家まで連れて帰った。気分はどうだ?」
倒れた時に比べたら、随分顔色も良くなっていた。
「ごめん。跡部に迷惑掛けてしもうて」
「それは構わねえが……」
今日一日の忍足の不可思議な行動の訳を、聞かせて欲しかったが。
しかし今、忍足にそれを問いただすのは、もっと忍足を追い込む事になるのではないだろうか。
そんな気がしてやめた。
「医者は風邪気味なところへ、微熱もあるのに寒い中に長時間立ちっぱなしでいたから、酷い脳貧血起こしたんだろうって言ってたぜ。
……今朝から体調悪かったんじゃねえのか」
ドア越しに聞えて来る監督の声。
ノックしようと上げた手が、宙を切った。
部誌を取りに来た榊の部屋の前に立ったまま、跡部は入ることも、その場から立ち去ることもできなかった。
いったい部屋の中にいる榊の相手は誰なのだろう。
聞えてくる声は榊のものだけで、他の声は聞えなかった。
普段他人のことには興味を示さない跡部には珍しく、部屋の中の人物が気になった。
『チョコレート・レクイエム』
じっと耳を澄ましていても、やはり榊の声しか届いて来ない。
いつでも構わないから、ここに来なさい……。
そう榊が告げた後、微かに足音が聞こえた。
跡部は、慌てて柱の陰に隠れる。
自分はいったい何をしているのだろう。
まるで、うわさ好きのクラスの女じゃねえかと、左側の口角を上げて跡部は苦笑いをした。
ドアがゆっくりと開く。
長めの黒髪が顔の表情を隠していたが、ちらりと見えた切れ長の瞳が。
赤く潤んでいるような気がした。
忍足……。
ドキリとした。
ひょうきんな関西人独特な、いつもの雰囲気は、忍足のどこからも感じられなかった。
それがどうしたと言うのだ。
しかし。
跡部はどうしても忍足が気になって。
榊の部屋から出て来た忍足の後をつけた。
跡部の想像通り。忍足の足は、部室とは反対の裏門に向かっていた。
どうも部活は、さぼるつもりらしい。
なら。やはり。テニス部部長として、放っておくことはできない。適当な理由をつけて、自分の行為を正当化した。
今日は土曜日なので、普段部活はオフの日なのだが、試合が近いため、午後からは部活の予定だ。。
跡部は携帯を取り出すと、宍戸に少し遅れるので各自のメニューをこなしておくように伝えてくれとメールを打った。
2月中旬。立春は過ぎていたが、今にも空から白いものが落ちてきそうな天候は、コート無しで歩くのには寒過ぎる。
跡部は部室に置いておこうと、手にしていたコートを羽織った。
とぼとぼと歩く忍足は、氷帝の近くにある、まだ緑を多く残している鄙びた感じの公園に向かっているようだった。
そのスポットだけが、都会の喧騒から取り残されている。
そう言えば、静寂な雰囲気が好きで、忍足は時々気分転換に行くと言っていたのを思い出した。
忍足は躊躇することなく、公園の中に入って行った。
その後をこっそりと追う。
凍えそうな天候のせいだろう。公園の中に忍足以外、人影を見つけることは出来なかった。
カモが泳いでいる池の前で、忍足の足が止まった。
水面を見つめているのか。
じっとしたまま動かない。
もちろん忍足が何を考えているのかなど、跡部には想像もつかなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
コートを着ていても、足先の感覚が無くなっている。
忍足は全く動こうとせず、じっと水面を見つめたままだ。
跡部はとうに我慢の限界だった。
足音を隠すことなく歩き始めたが、それでも忍足は気づかない。
必死で自分を取り戻そうとしている。
跡部にはそんな風に見えた。
小刻みに震える背中。
忍足が驚かないように、小声で声を掛けた。
「オイ」
同時に、跡部は自分が着ていたコートを脱ぐと、忍足の背中に掛けてやる。
振り向いた生気のない顔。
「奏……」
びっくりしたのは、跡部の方だった。
かなで?聞き覚えのない言葉……名前なのだろうか?
誰かと、間違えた?
「こんなところでなにしてんだ?」
「……跡部か、……ごめん」
「謝るだけじゃ、意味わかんねえだろ。部活さぼってこんなところで一人なにしてんだ?」
「……」
「かなでっていう女でも待ってたか」
「ちゃうよ!奏ではちゃう。……ただなんとなくや。跡部は無いんか、部活をさぼりたくなる日」
跡部が口にした奏と言う名に忍足は明らかに動揺していた。
ただなんとなく、な訳ないだろとは言えなかった。
虚ろな瞳。
跡部の方を確かに見ているのに、焦点は合っていない。
それ以上は忍足を追い詰める気がして跡部は問うのをやめた。
今、目の前にいる忍足は。
入学式の日に、初めてコートで対峙した時から知っている忍足では無かった。
意思を持たない漆黒の瞳が、ただ深淵だけを映していた。
「こんな寒い日にコートも着ねえで、何時間も突っ立ってる奴がいるかよ、アーン」
「えっ、跡部、いつから俺んこと見とったん?」
こわばった表情。小刻みに震える身体で問う。
「悪いが、おまえが学校を出た時からついて来た」
「……跡部」
「こんなに冷え切って、震えてるじゃねえか」
「……俺は大丈夫やから。コート脱いだら、跡部が風邪引いてしまうわ」
「俺はこれくらいで、風邪引く軟な身体じゃねえ」
いつものポーカーフェィスからは想像できない怯えた表情(かお)。
なぜだか、わからない。
護ってやりたいと思った。
気付いた時は。
忍足を抱きしめていた。
泣きそうな顔をしてるから?
「何があったか知らねえけど、泣きたい時は泣けばいい」
「……跡部。俺、跡部の前では泣かれへん」
跡部の前で……。忍足が口にした言葉の意味を、その時はまだ、考えようとはしなかった。
今一歩、自分が忍足の心の中にまで踏み込んでいいのか、跡部自身もわからなかったから。
だから。なぜとも聞かなかったし。
忍足も話さなかった。
ただ、縋るように、跡部の胸の中に顔を沈めた。
跡部はその背中を優しく撫でてやっただけ。
「バレンタインの前日でめんどくさいから、今日は部活さぼるか」
バレンタイン当日が日曜なので、今朝から何度もチョコを渡された。
いちいち断るのも面倒くさいから、ホワイトデーに事務的にお返しをすることで、済ますことにしている。
今年は日曜日で助かったと思っていたのに。
そんなに甘くはなかった。朝から辟易していたところだ。
跡部ほどではないにしても、女の子に人気のある忍足も、同じような状況だろう。
部活を騒がせるのは忍びないから。さぼりの理由にちょうどいい。
宍戸や向日からは、呆れられそうな理由だが。
跡部らしいと思われるだろう。
しかし。そんな理由を使う必要がなくなった。
「帰るぞ」
「ああ」
か細い声で答えた忍足の顔には、血の気が無くて。
「忍足、顔色悪いぜ」
「俺は大丈夫やから」
コートを跡部に返そうと、肩に手を上げた身体が崩れ落ちていく。
「忍足!!!」
力が抜けて倒れる忍足の、身体を支えながら何度もその名を呼んだ。
***********************
「気がついたか?」
「……跡部、俺」
「公園で倒れたから、俺の家まで連れて帰った。気分はどうだ?」
倒れた時に比べたら、随分顔色も良くなっていた。
「ごめん。跡部に迷惑掛けてしもうて」
「それは構わねえが……」
今日一日の忍足の不可思議な行動の訳を、聞かせて欲しかったが。
しかし今、忍足にそれを問いただすのは、もっと忍足を追い込む事になるのではないだろうか。
そんな気がしてやめた。
「医者は風邪気味なところへ、微熱もあるのに寒い中に長時間立ちっぱなしでいたから、酷い脳貧血起こしたんだろうって言ってたぜ。
……今朝から体調悪かったんじゃねえのか」
作品名:チョコレート・レクイエム 作家名:月下部レイ