チョコレート・レクイエム
「うん、ちょっと無理したんかな。でも気分、ようなったから、俺帰るわ。本当に迷惑かけて、ごめんな。
跡部んちには後でまたちゃんとお礼言いにくるわ」
「何、言ってんだ。泊まってけよ。どうせ一人なんだろうが」
「えっ?」
今年になってから、医師である忍足の父親は都内から関西の大学病院に転勤になった。
母親もそれを期に、年老いた両親の暮らす京都の実家の手伝いをするために、忍足を残して父親に付いて帰ったと言っていた。
高校生の姉は、既にアメリカに留学しているので、忍足は4LDKのマンションに一人暮らしになった。
しょっちゅう近くに住んでいる叔母が面倒をみにやって来るし、週に2度、家政婦さんがやって来るので、
生活には全く支障はないと忍足が言っていたのを、跡部は聞いた覚えがある。
跡部にとっては想像もできないが、アジも3枚に下ろすことができるようなまめな男だから、不自由を感じていないらしい。
逆に一人暮らしの自由を満喫していると、向日に言っている場面も目にしていた。。
「ありがとう、でも……。俺明日朝早よう学校に忘れ物取りに行って、行かなあかんとこあるねん」
「まだ熱もあるだろうが。どうしても行かないといけねえのか」
ベッドの上に起き上った忍足に近づくと、額に手を当てた。やはりまだ熱い。
「今日は俺の言うことを聞け。明日の朝、車で送ってやるから」
「でも、跡部のとこに迷惑かけられへん」
こんな状況でも、忍足は気を使う。逆に忍足が甘えてくれないことに、イラついた。
「これは部長命令だ!試合前にレギュラーのおまえが体調を崩してもらっては困るからな」
「……跡部。……ほんま、ごめん」
有無を言わさない跡部の剣幕に、忍足もひいたようだった。
「体調管理もレギュラーの仕事うちだぜ。何か食べられそうなものを持って来させるから。食事して薬飲んだら、早めに寝ろよ」
「うん、ありがとう」
消化の良さそうな豆腐料理と茶がゆをメイドが運んで来た。
跡部が受け取り、忍足のところまで持っていく。
ベッド脇のサイドテーブルの上に置くと、跡部が蓮華を手にし、葛あんのかかった豆腐を掬って、忍足の口元まで運ぶ。
「えっ」
「あーん」
「なっ、じ・自分で食べられるで」
「俺が食わせてやるって言ってんだ。素直に口を開けろ」
「ああ」
遠慮がちに開いた口の中に、豆腐を入れてやる。
喉の奥をゴクリと鳴らして、飲み込んだ。
「どうだ、美味いか?」
「おいしい」
「たくさん食べろよ」
「おん」
跡部が蓮華を忍足の口元に運ぶ度に、赤い舌がちょろちょろとするのが目に付いた。
漂う色香にクラクラする。
今付き合ってる彼女にも感じたことのない愛おしさ。
忍足は具合が悪いというのに。
自分は何を考えているのだと、跡部は思う。
どうして、自分でも理解しがたい感情が突然堰を切ったように、流れ出て来たのかわからない。
入学式の日に、初めて言葉を交わした忍足は余裕綽綽で。
テニスでも、精神的なものに関しても、自分のライバルになり得るのは、この男だと思った。
それは昨日まで、跡部を裏切るものではなかったのに。
どんな場面でもポーカーフェイス崩すことなく、冷静沈着な忍足が。
今日、跡部に見せた顔。
そのギャップが。
跡部の精神崩壊を招いたのか。
不思議な感情の流れに、跡部も戸惑っていた。
「もうお腹いっぱいや」
「これくらいにしとくか。じゃあ薬を飲んで横になれ」
全部は食べられなくても、跡部の顔を立てて少しでも口にしてくれたのが嬉しかった。
ヒートシールから出した薬とミネラルウォーターを渡すと、忍足は口の中に1錠放り込んで、水と一緒にゴクリと飲み込んだ。
「跡部、今日はありがとうな」
気にするなと言い、水の残ったコップを跡部が受け取ると、忍足は布団の中に入った。
跡部は先程まで座っていた椅子に、今度は本を手にして座った。
「俺一人で大丈夫やで。跡部もちゃんと休んでや」
「もう少しこの本を読みたいだけだ。俺のことは気にしなくていいから、おまえはもう寝ろ」
そう言って、忍足に微笑むと本を開いた。
暫くすると、忍足は寝たのだろう。
規則正しい寝息が、忍足の元から届いて来た。その穏やかな寝息にほっとする。
閉じた瞳にかかった黒髪を掻きあげた。思っていたよりずっと柔らかい。
忍足に振りまわされた一日だった。部活もさぼった。でもどうしても忍足から目を離せなかった。
忍足を一人にしてはいけないと思った。
「……んんっ、奏」
再びその名を聞いた。
悲しそうな声音だった。眠っていても忍足を、拘束するその名に嫉妬に近い感情を覚えた。
かなで、いったい忍足にとって、その人物はどんな存在なのだろう。
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「跡部、ずっとここにおってくれたん」
「ああ、自分の部屋に戻るのがめんどくさかっただけだ」
「ありがとうな、跡部」
跡部に微笑む顔は、いつもの忍足だった。
「どうだ気分は?」
「ええで」
「そうか、よかった。学校へ行くんだったな」
「あ、おん。やけど、もう大丈夫だから学校へは一人で行けるから」
「残念だが、俺も鞄を置いて来ちまってるんでな」
「えっ、俺のせいやろ」
「そうだ、おまえのせいだ」
そう言って、額を弾いてから手で触ると、熱はすっかり引いているようだった。
「飯食ったら、出かけよう」
「ごめんな、せっかくのバレンタインデーに、いたらん用事作ってしもうて。彼女待っとるんと違う?」
忍足に自分の彼女の心配などして欲しくない。
そんなことを思うところを見ると、自分の熱病は一晩経っても、まだ治まっていないようだ。
昨日からの自分はいったいなんなのだ。
忍足もおかしいが、自分も十分おかしい。
忍足のことが気になって仕方ない。
かなでというのは、やはり忍足の恋人ではないのだろうか。
交わす言葉も無く。
忍足は車窓から、外を見ていた。どこか遠くを見ている。
先程から何度も時計に、目を落とすのも気になった。
やはりバレンタインデーの今日、誰かと待ち合わせしているのだろうか。
なら、なぜ。
楽しいはずなのに。
倒れなきゃならないほど、苦しんでるんだ?
間もなく氷帝の正門前に車は停まった。
「俺、榊センセと付きあっとんねん」
はっ?ぼっそっと呟くように忍足が言ったその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
でも。
車から出ようとしている忍足の腕を、反射的に掴んでいた。
「行くなよ!」
「えっ?」
「……今日は俺と、一緒にいてくれねえか」
突然の跡部の言葉に、当然忍足は驚いた。
「車出してくれ。さっき言ったところへ寄って……」
「……跡部」
名を呼んだきり、忍足は何も言わない。
学校で下ろさなかった自分に、抵抗する事はなかった。
「いつからだ?」
「半年くらい前から」
「好きなのか」
「わからへん」
「好きかどうか、わからない相手と付きあってんのか」
「……そうや」
「やめろよ、もう。半年付き合っても、好きかどうかわからない奴なんて」
「でも、センセおらへんかったら、俺。……ダメになってたかもしれへん」
「それは、恋とは言わねえだろ」
作品名:チョコレート・レクイエム 作家名:月下部レイ