となりのかめさん
六月の夜は、意外にも冷える。
初夏だと言うのに裾から忍び込む夜気は背筋を粟立たせ、襟元を撫でる隙間風は肩を震わせ、那須を浅い眠りから引き摺り起こした。
矢張り、人里ならいざ知らず山間部の、それも断熱や防風効果の薄いテントにてジャージ一枚で寝るのには無理があったかと身を縮めて辺りを見回す。暗がりに目が慣れるまでは暫く掛かり、寝返りを打って当たった腕が目の前の黒い塊を鞄だと気付かせ、左右から聞こえる三つの寝息が寝入る前の状況を思い出させた。
ボランティア精神でも学べと言うのか、ゴミ拾いに終始した林間学校。夕飯に出されたカレーは人の食べるものではなく、空腹を持て余したままテントに篭れば完二が来て、他愛もない話をしている内に暴走。飛び出して行ったは良いがその結果千枝と雪子が行き場を失くし、ここへ転がり込んで来た。そういう紆余曲折があって今に至る。呼んでもいない客人は正直迷惑でしかなかったが、那須も陽介も、彼女らの要望通りに荷物でバリケードを築く程度にはモラリストであり、一人に一組ずつ支給される寝具を譲る程度にはフェミニストでもあった。故に、着の身着のまま。寒いのは当然のことで、陽介は少しでも体温を維持する為か丸くなって寝ている。
ようやく暗闇に順応した眼が捉えたその輪郭は、亀さながらだ。手足を引っ込めた寝姿は窮屈そうで思わず声を掛けた。
「陽介。……陽介、寒いのか」
毛布は取られてしまったが、明日泳ぐ際に使おうと持って来た大判のタオルを被れば多少は暖が取れるだろう。
だが、那須とは対照的に陽介の眠りは深く、訊ねても返答らしい返答はない。すうすうと健やかな寝息が返るだけだ。そおっと伸ばした手で肩を揺さ振れば、手の平の下の温かさに驚く。熱でもあるのかと一瞬蒼くなったが呼吸は規則正しく、合わせた額の温度も自分と大差なかった。ホッと胸を撫で下ろして思い馳せる。どうやら彼は全身が冷え難い体質、或いは――子ども体温であるらしい。
前髪を押し上げた寝顔は普段よりもぐっと幼く見える。胎児のようなポーズも相俟って微笑ましく、那須は口の端を緩めながらボストンバッグのファスナーを開いた。底に敷いてあったタオルを手探りで引っ張り出すと、広げて剥き出しの肩に被せてやる。ついでに自分もその隣に陣取ってご相伴に与った。鼻先十センチ程の距離で眠る相棒。……男の寝顔を可愛いと思ったのは生まれて初めてだ。
「おやすみ、陽介」
込み上げる愛おしさを当時は、犬猫に感じるものと同等のものだと考えていた。甘いキャラメルを思わせる茶髪は柔らかく、小動物そのもので気持ちが良かった。さらさらの猫っ毛だが、陽介の性格からすると猫というよりは犬だ。犬なら犬種は小型か中型、柴犬やテリア辺りが似ているだろうかとくだらない物思いに耽っている内に、那須はまた夢の淵へと沈んでいった。
タオルが冷気を遮断してくれたのか、もしくは彼の温もりが側にあった所為か、それきり朝まで目覚めなかった。翌朝、陽介が手足の痺れを訴えたのを聞いて、あの時起こしておけば良かったかと僅かに後悔した。初めて陽介と寝た日の思い出は、そんなものだった。
* * * * *
九月の夜は、思いの外冷える。
ラブホテルに毛の生えた、というか、ラブホテルでしかない宿泊施設の一室で那須はふと覚醒した。修学旅行の宿に相応しいかどうかは兎も角、腐ってもホテルだ。コンクリートの壁はしっかりと夜風を防いでいるし、備え付けの寝具も高級とまではいかないが煎餅布団ではない。シフォンケーキの如くにふかふか、ふわふわとこの身を包み込んでくれているのだが、どうにも涼しくて堪らない。
妙な肌寒さを覚えて背後を振り返れば、背中合わせに眠る陽介と那須との間に風の通り道が出来ていた。
「………………」
長い手足を折り畳んだ身体はシーツと接する面積を小さくする代わりに厚みを増して、仰向けに眠っていた那須との高低差を生み出している。即ち横向きに寝転んで垂直に立てた彼の肩から、この平たい胸までを覆う布団と自分達との隙間がぽっかり開いていたのだ。
「陽介…………」
過去に身体を痛めたにも拘らず、またしても同じ姿勢で寝ている陽介に深い溜息が落ちる。しかし幾ら那須がこの学習能力のなさを嘆いたところで夢の世界にいる陽介には届かない。
ぐっすりと寝入っているらしい陽介は両脚を抱え込み、頭を垂れて、冬篭りの穴熊よろしく丸まっていた。推理小説などで時折『スーツケースに死体を詰めて持ち運ぶ』といった描写を見掛けるが、正にスーツケースにぴったり嵌ってしまいそうな位コンパクトになってしまっている。勿論、陽介は死体ではないからこのままの体勢でいたなら起床後の筋肉痛は免れないだろう。
流石に、目の前で繰り返されようとしている愚行を見て見ぬ振りでやり過ごすのは気が引ける。ぽん、と軽く肩を叩いた。
「起きろ、陽介……陽介」
ぽん、ぽんと二度三度。辛抱強く呼び掛けていると、六度目辺りで「ぅん……?」と間延びした声が聞こえた。
固い結び目が解けていくように腹の前で一塊になっていた四肢がばらける。左手の甲が瞼を擦り、右手の指がシーツを掴み、右足は殆ど動かさずに左足で掛け布団を蹴飛ばす。先程は腕の影で分からなかったが、呻いて面を上げた陽介は苦しそうに顔を歪めていた。うーうー、小声で魘されている。
今度こそ発熱したか。ベッドサイドのスイッチを入れれば柔らかなオレンジ色の光が灯る。「大丈夫か」そう訊ねながら助け起こすと寝汗で湿った背中が那須の腕に凭れた。おもむろに開かれるのは光を受けて艶めく、琥珀色の瞳。眩しそうに眉を顰める。
「ぅあ……あ、な、那須……?」
「ああ。俺だが、どうした」
大きく見開かれたり、一本の線になったりと焦点の定まらない眼を見据えて前髪を掬ってやる。手を当てた額は熱があるどころか、多量の脂汗で冷え切っていた。貼り付いた髪の一本一本を剥がして、梳いて、撫で付けてやる内に落ち着いたようで訥々と語り出した。
「棚卸し、する夢……見てた……」
どうやら、夢見が悪かったようである。
「段ボールが落ちてきて、埋もれて息、出来なくって……」
「……災難だったな」
これはある種のノイローゼなのではあるまいか。夢の中までバイトに明け暮れている親友に一抹の不安を覚えた那須だったが、余計なことは言わずに真顔で宥めた。確か、行きの電車の中でも自分がいない間のジュネスを心配していた気がする。出来る限りのことはして来た、と言っていたが、フォロー出来る奴がいないからクマのシフトも調整して来た、結果がこの有様――隣のベッドで完二と共に眠っている弟分――なわけだが、どうやら、こちらが思っている以上にストレスを溜めているようだ。
「……も、六時……?」
疲労も蓄積しているのだろう。起床時間を気に掛けながらも瞼は不自然な上下運動を繰り返し、舟を漕ぎ始めたおとがいはかっくんかっくん揺れていた。抱き起こした上半身を再び横たえてやる。
「いや、二時前だ。安心して寝ろ」
「ん……そう、する……」
気だるげに頷いてそれっきり、陽介の瞼は上がらなかった。
初夏だと言うのに裾から忍び込む夜気は背筋を粟立たせ、襟元を撫でる隙間風は肩を震わせ、那須を浅い眠りから引き摺り起こした。
矢張り、人里ならいざ知らず山間部の、それも断熱や防風効果の薄いテントにてジャージ一枚で寝るのには無理があったかと身を縮めて辺りを見回す。暗がりに目が慣れるまでは暫く掛かり、寝返りを打って当たった腕が目の前の黒い塊を鞄だと気付かせ、左右から聞こえる三つの寝息が寝入る前の状況を思い出させた。
ボランティア精神でも学べと言うのか、ゴミ拾いに終始した林間学校。夕飯に出されたカレーは人の食べるものではなく、空腹を持て余したままテントに篭れば完二が来て、他愛もない話をしている内に暴走。飛び出して行ったは良いがその結果千枝と雪子が行き場を失くし、ここへ転がり込んで来た。そういう紆余曲折があって今に至る。呼んでもいない客人は正直迷惑でしかなかったが、那須も陽介も、彼女らの要望通りに荷物でバリケードを築く程度にはモラリストであり、一人に一組ずつ支給される寝具を譲る程度にはフェミニストでもあった。故に、着の身着のまま。寒いのは当然のことで、陽介は少しでも体温を維持する為か丸くなって寝ている。
ようやく暗闇に順応した眼が捉えたその輪郭は、亀さながらだ。手足を引っ込めた寝姿は窮屈そうで思わず声を掛けた。
「陽介。……陽介、寒いのか」
毛布は取られてしまったが、明日泳ぐ際に使おうと持って来た大判のタオルを被れば多少は暖が取れるだろう。
だが、那須とは対照的に陽介の眠りは深く、訊ねても返答らしい返答はない。すうすうと健やかな寝息が返るだけだ。そおっと伸ばした手で肩を揺さ振れば、手の平の下の温かさに驚く。熱でもあるのかと一瞬蒼くなったが呼吸は規則正しく、合わせた額の温度も自分と大差なかった。ホッと胸を撫で下ろして思い馳せる。どうやら彼は全身が冷え難い体質、或いは――子ども体温であるらしい。
前髪を押し上げた寝顔は普段よりもぐっと幼く見える。胎児のようなポーズも相俟って微笑ましく、那須は口の端を緩めながらボストンバッグのファスナーを開いた。底に敷いてあったタオルを手探りで引っ張り出すと、広げて剥き出しの肩に被せてやる。ついでに自分もその隣に陣取ってご相伴に与った。鼻先十センチ程の距離で眠る相棒。……男の寝顔を可愛いと思ったのは生まれて初めてだ。
「おやすみ、陽介」
込み上げる愛おしさを当時は、犬猫に感じるものと同等のものだと考えていた。甘いキャラメルを思わせる茶髪は柔らかく、小動物そのもので気持ちが良かった。さらさらの猫っ毛だが、陽介の性格からすると猫というよりは犬だ。犬なら犬種は小型か中型、柴犬やテリア辺りが似ているだろうかとくだらない物思いに耽っている内に、那須はまた夢の淵へと沈んでいった。
タオルが冷気を遮断してくれたのか、もしくは彼の温もりが側にあった所為か、それきり朝まで目覚めなかった。翌朝、陽介が手足の痺れを訴えたのを聞いて、あの時起こしておけば良かったかと僅かに後悔した。初めて陽介と寝た日の思い出は、そんなものだった。
* * * * *
九月の夜は、思いの外冷える。
ラブホテルに毛の生えた、というか、ラブホテルでしかない宿泊施設の一室で那須はふと覚醒した。修学旅行の宿に相応しいかどうかは兎も角、腐ってもホテルだ。コンクリートの壁はしっかりと夜風を防いでいるし、備え付けの寝具も高級とまではいかないが煎餅布団ではない。シフォンケーキの如くにふかふか、ふわふわとこの身を包み込んでくれているのだが、どうにも涼しくて堪らない。
妙な肌寒さを覚えて背後を振り返れば、背中合わせに眠る陽介と那須との間に風の通り道が出来ていた。
「………………」
長い手足を折り畳んだ身体はシーツと接する面積を小さくする代わりに厚みを増して、仰向けに眠っていた那須との高低差を生み出している。即ち横向きに寝転んで垂直に立てた彼の肩から、この平たい胸までを覆う布団と自分達との隙間がぽっかり開いていたのだ。
「陽介…………」
過去に身体を痛めたにも拘らず、またしても同じ姿勢で寝ている陽介に深い溜息が落ちる。しかし幾ら那須がこの学習能力のなさを嘆いたところで夢の世界にいる陽介には届かない。
ぐっすりと寝入っているらしい陽介は両脚を抱え込み、頭を垂れて、冬篭りの穴熊よろしく丸まっていた。推理小説などで時折『スーツケースに死体を詰めて持ち運ぶ』といった描写を見掛けるが、正にスーツケースにぴったり嵌ってしまいそうな位コンパクトになってしまっている。勿論、陽介は死体ではないからこのままの体勢でいたなら起床後の筋肉痛は免れないだろう。
流石に、目の前で繰り返されようとしている愚行を見て見ぬ振りでやり過ごすのは気が引ける。ぽん、と軽く肩を叩いた。
「起きろ、陽介……陽介」
ぽん、ぽんと二度三度。辛抱強く呼び掛けていると、六度目辺りで「ぅん……?」と間延びした声が聞こえた。
固い結び目が解けていくように腹の前で一塊になっていた四肢がばらける。左手の甲が瞼を擦り、右手の指がシーツを掴み、右足は殆ど動かさずに左足で掛け布団を蹴飛ばす。先程は腕の影で分からなかったが、呻いて面を上げた陽介は苦しそうに顔を歪めていた。うーうー、小声で魘されている。
今度こそ発熱したか。ベッドサイドのスイッチを入れれば柔らかなオレンジ色の光が灯る。「大丈夫か」そう訊ねながら助け起こすと寝汗で湿った背中が那須の腕に凭れた。おもむろに開かれるのは光を受けて艶めく、琥珀色の瞳。眩しそうに眉を顰める。
「ぅあ……あ、な、那須……?」
「ああ。俺だが、どうした」
大きく見開かれたり、一本の線になったりと焦点の定まらない眼を見据えて前髪を掬ってやる。手を当てた額は熱があるどころか、多量の脂汗で冷え切っていた。貼り付いた髪の一本一本を剥がして、梳いて、撫で付けてやる内に落ち着いたようで訥々と語り出した。
「棚卸し、する夢……見てた……」
どうやら、夢見が悪かったようである。
「段ボールが落ちてきて、埋もれて息、出来なくって……」
「……災難だったな」
これはある種のノイローゼなのではあるまいか。夢の中までバイトに明け暮れている親友に一抹の不安を覚えた那須だったが、余計なことは言わずに真顔で宥めた。確か、行きの電車の中でも自分がいない間のジュネスを心配していた気がする。出来る限りのことはして来た、と言っていたが、フォロー出来る奴がいないからクマのシフトも調整して来た、結果がこの有様――隣のベッドで完二と共に眠っている弟分――なわけだが、どうやら、こちらが思っている以上にストレスを溜めているようだ。
「……も、六時……?」
疲労も蓄積しているのだろう。起床時間を気に掛けながらも瞼は不自然な上下運動を繰り返し、舟を漕ぎ始めたおとがいはかっくんかっくん揺れていた。抱き起こした上半身を再び横たえてやる。
「いや、二時前だ。安心して寝ろ」
「ん……そう、する……」
気だるげに頷いてそれっきり、陽介の瞼は上がらなかった。