恋のヤマイ、ハルの鬼
まだ冷たい空に一際明るい隣の惑星が輝きながらもがいて光に飲まれ沈んでいく。
「桜が…」
ふと、振り仰いだ目線を止めた菊がゆったりと存外に意思の強い口元を綻ばせ袂を押さえて枝先に結ばれた白の蕾を指し示した。言われてみれば一帯のそこここで木々は春の息吹を携えて時の訪れを待っている。
「全部桜なのか」
「ええ…音羽山まで上がると眼下に見下ろすことになりますから」
緩く続く坂の途中から先に伸びる景色を釣られて眺めれば、まだその姿を露していない日の出は思いのほか眩しすぎて思わず覆う手を翳した。
「春になれば桜の海が見られますよ」
無理して微笑んだ深淵の色の瞳は泣いていたのだろうか。
背を向けた菊の小さな姿を頼りに坂を登る。そういえばここで転ぶと死んでしまうのだと初めて訪れた時に俺に告げたのは彼だ。一歩一歩慎重な足取りでおっかなびっくり石畳を踏み締める俺に「ただの言い伝えですよ」とほんとなのかジョークなのかさっぱり読めないいつもの表情でそう言ったのも菊だ。
彼はいつでも温度を感じさせないミステリアスな静寂を纒い、それでいて陽溜りのように笑ってくれた。
他の誰とも違う存在。
「陽が登り切ってしまいますよ」
少し遅れた俺を見返りそっと手を差し伸べてくれた。起伏の多い道を歩き慣れていなくて苦戦しているのだと思ったのだろう。出会った時は握手すら躊躇して触れ合うことを好まないでいたのに。
まもなく――坂が終われば繋いだ手は解けて二度と触れ合うことはないのだろう。
無垢で無邪気な彼はそれをまだ知らない。
「春が来たら」
泡沫の夢を見ていた。
「また桜を見に参りましょう」
優しい幻影はいつでも覚醒めれば独り取り残される。
ザラリとした質感の繊維の荒い彼の国特有の『和紙』とか言う紙で作られた便箋はほんのりと薄桃色の桜花の透かしが見えた。
今まで幾度となく出した時節の挨拶に一度も返礼できなかった侘びの文章が長々と綴られる彼自身の手で書かれた私的な『手紙』はあまりにらしすぎて自然と頬が緩んでしまう。きっとアルが良い顔をしないと遠慮していたのだろう。むしろ果たして俺の差し出す手紙を素直にあいつが菊に渡しているのかということすら疑っていたので、こうして全て読んでいて貰えたのだということにほっとした。
器用に綴られる美しい文字と何処かぎこちない言い回し。菊はあまり英語は得意ではなかった。そっとマホガニーの文机の椅子に腰を落ち着けるとそれでも一字ずつ大切に読んだ。
「あれ。ここに居た」
銀の給仕用のトレイにポットといつの間にか作ったらしいサントノーレを乗せて甘ったるい香りを漂わせたフランシスが行儀悪く体でドアを開けて入ってきた頃には、もう三度繰り返して読んでいるところだった。
「ノックぐらいしろよ」
「なあに?仕事?」
いつもの小言は柳に風、気にした風でもないフランシスは薄く髭を纏った顎を上げてわざと見えない距離から伺うように覗き込んでみせる。
「プライベートだ」
「…あれ、菊ちゃんから?」
勿論見せるつもりなんてなくそそくさと仕舞ったがその封筒の材質は人一倍美しいものには目のないこの男にすぐに正体をバラしてしまった。
ていうかなにいつの間にか菊のこと気安く呼んでんだ、このクソ髭。
いつものように最大限の言葉を尽くして罵ってやろうと見れば浮かべているのは皮肉沁みたいつものニヤニヤ笑いでなく、ちょっと複雑に歪めた泣き笑いみたいな表情で勢いを削がれた。
「…んだよ」
「…坊ちゃんはさ」
長い間見ようとせずに居て見えなかったモノ。
「――――――」
春が来たら。
懐かしい傷痕も癒えてまた桜の下で微笑む鬼に逢いに往く。
Plastic Tree「春咲センチメンタル」「イロゴト」
作品名:恋のヤマイ、ハルの鬼 作家名:天野禊