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恋のヤマイ、ハルの鬼

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 笑った顔が存外に愛らしいことなんてとっくに知っていた。
 いつでも気難しげに潜めた立派な眉の間を緩めてふわりと花が綻ぶように開く笑顔が好きでお菓子を携えて海峡を渡る。
 なのにそれはいつだって横目の端でしか捉えられない。
 揶揄う皮肉は思うより先に言葉を為して柔らかな花弁に降り注ぎ、弱い部分を隠して鎧う棘が覆い尽くしてしまうのだ。両手にできた豆のように――それは銃瘡であったり、重い鍬の残す痕跡であったり――傷つくほどに耐えるが為に硬く厚く。
 だけどそれは。
 望んで得た結果だ。
 そんな弱いお前なんて。




 誰にも見せたくない。




 闇を齎す春の風は熱に浮かされて『恋』を散らす。



 浮き出た背骨のラインにまだ癒えきらない瑕を見つけて唇で辿る。
 冷たい肌の感触。薄く纏った汗が排出された熱を気化し過剰に温度を下げて冷えてしまう。張り詰めた交感神経が上げた心拍数の名残だけ響く。
「も…離せ」
 醒めた声が不機嫌に尖って俺を振り解く。
「情事後に急に淡白になる男ってサイテー」
「うっさい、キモイ、どけ」
 サイドテーブルを手探りする白い指から潰れたソフトケースを取り上げた。寝煙草を咎めようかと思ったが一本取り出して噛み締めてみる。何処かすっきりしない感情に苛つく。
「ベッドで吸うなよ」
 過擦れた声が俺が言う予定だった台詞を吐いて忌々しげに視線だけ向けた。自暴自棄に任せて自傷のように求めた躯は痛々しいほど傷ついてまだ自由が利かない様だ。
 疵に傷を重ねて惨みを誤魔化す行為だなんて承知の上、必要なのだからと言い訳をしてまた世界を塞ぐ。
 眼底の奥から消えない冷たい嵐にただ唇を噛んで耐える姿はまるでフォンテーヌの寓話に出てくる旅人のようだ。頑なに閉ざした外套のようにその心はどんなに吹きつけてもけして解かれることはなく、美しいほどに孤高であるべきだったのだ。
 きつく強く鋭利な眼差しの奥。
 正面から覗き込めば奥に揺れる孤独が透けて見えてしまう。
 弱いお前が白日の元に曝されて乱されるのが許せなかった。
 それが例えお前自身の望みであっても。
「…離せ」
 力なんて籠めていない拘束の手を細い首筋に絡めればまた静かに同じ台詞を繰り返す。
「アルに、呼ばれてんだよ。…行かなきゃ」


 嗚呼、だから。
 雁字搦めに戒められて泣くことも喚くこともできない心にわざと爪を立てるのかと。





 世界の病みは熱を上げ、果てしない渦に飲まれた脆弱な絆は翻弄され虫の息。


作品名:恋のヤマイ、ハルの鬼 作家名:天野禊