臨帝超短文寄集
11:鏡の中の理想郷
合わせ鏡の中に閉じ込められると人間は発狂するという。であれば万華鏡の中にいるように綺羅綺羅しく賑やかなこの街で、人間が狂わないのは何故なんだろう。それとも狂っているのだろうか。僕が知らないだけで、そうだと気づいていないだけで、いびつに皆歪んでいるのだろうか。ちらりと隣にいる男を眺める。このひとも?
幼子が大人にそうするように、無心に浮かんだ疑問をぶつけてみたかった。けれどもう無垢な子供という時期は過ぎた僕にはそんなことは出来ない。しかし僕のもの問いた気な表情を見抜いたのか、どうしたの、と彼の方から聞いてくる。こういう風になにかを察して、促してもらえる自分は甘やかされていると思う。子供扱いはされたくないが、楽なのは確かだった。
せっかく機会をもらったので言ってみる。合わせ鏡の中に閉じ込められると人間は発狂すると聞いたので、それについて考えていたと。そうしたら彼は笑った。
「ああ、乱歩の鏡地獄ね。でも実際にテレビで実験したら発狂はしなかったそうだよ。ただ、実験が小説とは違うのは、実験者は小説の主人公のように鏡やレンズ類に対して狂気的な執着をもっていなかったことだね」
あ、そういう小説の話なんですか?と僕は尋ねる。題名を聞いた事はあるような気がしたが読んだ事はない。「うん、鏡やレンズを異常なまでに愛好する男が、あるとき内部全てを鏡張りにした球体を作って中に入る。そうしたらー…、って話」と説明された。
「自分が好きなもので埋め尽くされた空間に入ったら発狂してしまったわけだけど。笑っていたという描写だから、作者はそれを狂喜の果てとして描きたかったのかな……」
「へー、自分の好きなもので埋め尽くされた空間に入ったために発狂してしまったんですか」
じゃあ、と僕は真っ先に浮かんだ考えを言の葉に乗せた。
「人間が大好きな臨也さんは、人間だらけの世界に生まれ落ちた時点ですでに狂ってしまう環境は整っていたわけですね」
「……」
ひととき沈黙が流れ、さすがに暴言がすぎたかと彼の表情を窺う。と、
(あ、僕全然間違ったこと言ってないな)
臨也さんは実に面白いものを見ている、という顔で窓の外を見ていた。高いところを好む彼の住居であるこの高層マンションの一室からは、街の夜景がよく見える。地上の星は確かに美しいが、こんなに楽しげな顔で見る人を僕は他に知らない。あの灯のひとつひとつは、彼の愛する人間が生を営んでいる証だからだろう。つられるように僕も彼の見ている方を見て、そしてぎくりとする。
鏡のように澄んだ窓の中で、臨也さんと目が合った。
「…確かにそうかもね。じゃあ非日常が大好きな帝人君は、非日常だらけのこの街に来たことによって狂うための環境が整ったのかな」
「……狂うためって、そんなまるで自主的に狂いたいみたいな言い方、」
「違うって?」
闇夜に浮かぶ鏡の中で、赤い目が笑っている。ひどく楽しそうに。そして、ひどく愛しげに。
「楽しみだな、ああ楽しみだなあ! 君がこの街で、どんな風に変わるのか」
歌うように言う彼の長い腕で抱きしめられて、僕はどうしてかひどい息苦しさを覚えた。まるでその腕の中に、閉じ込められたみたいで。