臨帝超短文寄集
9:欲しいもの
こんなことをしている場合じゃない。そんな焦燥感に僕は最近追い立てられていた。自分の望みを叶えるために選んだ方法は、ひどく遠回りな気がするのだ。波打ち際で豪勢な砂の城を築こうとして、とろとろと土台の砂から流れに浚われ崩れていくのを見ているようなやるせなさがある。このやり方では駄目かもしれない。けれど、ではどうすればより早く求める結果が得られるのかわからない。水の中で全力疾走しようとするようなもどかしさは、僕の精神を不安定にさせた。
「僕、欲しいものがあるんです」
そうした不安が頂点に達したある瞬間、僕は泣きながら彼に訴えた。欲しいものがあるんです、大それた望みじゃないと思っています、僕はただ、取り戻したいだけなんですーーー
「うん、うん、辛いんだね、可哀想にね」
彼は柔らかく僕の哀しみに寄り添ってくれた。少なくとも、その苦しみを理解できるという振りをしていた。それで十分だったはずだった。そこでありがとうございますと言って、僕から引いておけばよかった。後から考えればそうなのだけれど、その時の僕は自分の感情に手一杯で、相手の考えを計ろうという余裕など全くなかったのだ。
だから彼が言った次の言葉に、ひどい反応をしたのだった。
「大丈夫、君には俺がいる。俺がいるよ。だから大丈夫だ」
ちがう、僕が欲しいのはーーー
「貴方じゃない」
僕はきっと彼に甘えていた。そうでなければこんな台詞は冗談にも口に出来なかったはずだ。彼は僕より大人で、僕よりいろんなものが見えているはずで、僕に優しくしてくれて。僕はそれに甘えていたのだ。多分、多少の馬鹿は若気の至りとして許容してもらえると、根拠もなく思いこんでいた部分があったのだろう。彼にとっての僕は、大した存在ではないだろうと考えていたこともある。僕が何を言おうと、彼が本当の意味で気にすることはないと、思っていたのだった。
彼は僕の拒絶に少しの間、なんとも返事を返さなかった。やがて僕がその無反応に気づいて彼を見つめると、彼もひたと視線をあわせて僕を見返した。その目の色に僕ははっとした。
彼の紅色の瞳は、ひどくすさんだ輝きを放っていた。とてもではないが、悩みを抱えた人間に慰めの言葉をかけている最中という気色ではない。それがどういう感情の表れなのか、僕は知っているような気がした。これはーーー(先輩、笑ってるじゃないですか?)後輩の言葉が脳裏に蘇るーーーこれは、彼の見せている、この感情は。
(え、折原さん、なんでそんなかおを…いま、)
唐突に神経が張りつめた。自分はなにか、とんでもない間違いを犯しているのではないかという恐怖に身を貫かれて。今の今まで縋り付いていた相手が、一瞬で異形の怪物に化けたかのような悪寒。のぼっていた血がざあっと下に流れ落ちる感覚に、文字通り頭が冷えた。よくよく考えれば、僕はなぜこの人にこんな、心を許していなければできないような真似をしていたのだろう。この人のことをどれだけ理解しているというのか。
ひたすらに考える。この人は信用できる存在だったか?無条件で他者に手を差し伸べるような人間だったか?僕が頼っても大丈夫な相手だったか?いや、そもそもそれを判断できるほど、僕は彼という人間の中身を知っていただろうか?
これは、誰だ?
浮かんだ疑念に涙さえも止まった僕に、彼は笑ってみせた。
笑って、言った。
「知ってるよ。でもじきに俺が一番欲しくなるさ」
ーーーそうして、俺しかいらなくなる。
彼はそう呟くと、僕の顔の前に手をかざした。何もみえなくなる。まぶたを閉じるよう促されているのだと気づくと同時に、「少し眠るといい、きっと気分もよくなるからね」と慈悲に溢れたといっても過言ではない声が降って。
暗転した視界のなかで、僕に触れる温度はただ彼のものだけだった。