あの夜の 前篇
心配そうに伸ばされたその人の手を払いのけて、半分ほどに減ったエールを一気に呷った。ゆる やかな稜線をえがく喉仏が上下する。そうして、傾いていたジョッキが水平になる。その底に、どろどろと泡だけ残っている。もう何杯目だか、数えるのは億劫になるほど飲んだ。おい、飲み過ぎだぞ。呆れぎみの尤もなその声が、薄い膜を通したようにぼんやりと頭に響く。たしかに、アーサーは思う。たしかに飲み過ぎたみてえだと 。まばたきをすると、時折目の前が二重に見える。相当きている。それでもその声を無視して飛び出しかかっていた財布を尻ポケットに押し込んだ。去年の夏に買い替えたばかりの、黒革の二つ折りである。その中に差し入れた金は、ここ最近、そのほとんどが酒代に飛んでしまっている。財布の中身はまだあったかと考えながら、ふらふらと何歩か踏み出した。おい、待て!そういう声を伴って突然何かに腕を掴まれる。気をゆるめていたために、勢い余ってそのままがくんとつんのめった。……くそっ、放せ!
何に掴まれたかは知っている。それを必死にほどこうとして、身をよじった。何杯目だと思っている。まだ酔ってねえからいいんだよ!嘘を言うな、馬鹿者。溜め息を吐いて、始末におえないというような顔をされた。自分よりも幾らか白面の餓鬼にである。馬鹿にするな、そう思ったが彼から逃れるのが優先であったので、アーサーはそれを口にすることもままならなかった。もう駄目だからな。そう言って伸びてきた、筋の浮いた白い手はジョッキを奪おうとする。咄嗟にジョッキを腹に抱えて身を屈める。その隙間からちらりと覗いた彼の表情は、少し面喰らっているようだった。驚いた拍子に、ふと腕を掴んでいたルートヴィッヒの力が緩くなる。しめた。その隙を逃さず、アーサーは一気に彼の手を振り払った。逃げるようにしてパブの雑踏にまじる。 あっ、待て!そう言う声が後ろでしたが、結局アーサーがそれに取り合うことはなかったのだった。
……酒をよこせ、何でもいい。カウンターに膨れ上がっている客をかきわけて言う。テンダーのぎょっとする顔。二、三度まばたきしなければ、それももうぼやけてしまって表情の細部まではわからない。困惑しているテンダーをよそに、酒焼けした声ではやく、と急かした。慌ててテンダーがジョッキに酒を注ぐ。その間に財布から四ポンドを抜いた。この四ポンドを後に、財布の中は空だ。本当に少し、飲み過ぎた。
ジョッキの鈍い音に気付いて、テーブルに金をたたきつける。荒々しくカウンターを後にすると、その背後でそそくさとテンダーが金を受け取った。そうして再び雑踏を抜けて、今頃やきもきして眉を寄せているであろうルートヴィッヒの元に、おぼつかない足取りで戻っていった。
楽しげに肩を組む雑踏を抜けた先で、案の定その人が怖い顔をしてアーサーの顔を睥睨している。おいおいどうしたんだよクラウツ、そんな顔をして。皮肉めかしてそう茶化すと、彼の顔が一層こわばった。すと顔を左に背けられる。酒臭い。駆逐するように手の甲を向けられて肩をすくめた。そいつはすまないな。反省の取れない声でそう謝りながらも、アーサーは酒を呷るのを止めない。……しかしよくまあそんなに飲めるものだ。そりゃあ俺はお前と違って若くない、その分疲れも出るからな。会話は弾まない。周囲の喧しさと反比例して、彼らの間はパブの雑踏と遮断されたようにしんとしていた。その、気まずさをまぎらわせるために、アーサーはきょろきょろと視線を動かす。すると、ルートヴィッヒの手元が視界の端でちらりと動いた。彼の手の中のジョッキは、珍しくちっとも減る気配がないようだ。 イングランドビールが合わなかったのか、気心の知れない相手を前に酔うのは癪だと思ったのか、はたまた何だったのか。そういうことを考えていると、時折傾くアーサーのジョッキを眺めていたルートヴィッヒが、不意に小さくつぶやいた。……俺の兄貴も相当ザルだが、あのひとよりも数倍呑んだくれる奴は初めて見た。
その時、アーサーはただゾッと、した。ぼんやりと、だがたしかに兄貴とそう聞こえて、不意に背筋を舐め上げられるような、えも言われぬ気味の悪さを感じたのである。嫌でも昔を思い出してしまう。たしかにあの頃、自分があの男の兄貴だったのを。あの日、最後に兄貴だったのを。みるみるうちに全身の血が下りていくのを感じた。あの日の記憶はひどいものだ。思い出したくもない、と思う。カークランド?不思議そうに顔を覗きこむルートヴィッヒの、その目の色、髪の色。思わずジョッキを落としそうになった。そうしてアーサーは、再び思い知らされたのだった。……ああそうだ、俺はたしかにあの日、兄貴だったのだ、と。
雨が降り出した。忙しなくパブを出てゆく人々がギイギイとドアを軋ませる。そのドアの隙間から時折聞こえる、雨のしたたる音は妙に研ぎ澄まされて、しっかりとアーサーに届いていた。それでもどうにか会話できるくらいには従容を取り戻した。一応の安堵を得たのも束の間だったけれど。
昔、お前の兄貴は強かった。……だけどそれは、俺もだ。
酔いのせいか困惑のせいか、思わぬ言葉がアーサーの口を衝いたのだ。ハッと手で口元を押さえる。自爆した、と思った。どうにも口を滑らせた。その言葉はまるで、彼の兄に対する負け惜しみのようで、ひどく後悔させられた。しかしながら、その話を揉み消すことをアーサーはしなかった。いいか、これは酔っ払いの愚痴だ。降り出した雨の湿気ですっかりぬるくなってしまったエールを飲み干して、そう付け足す。ルートヴィッヒは依然顔を左に向けたままで、聞いているのかもわからなかったが。
アイツは。……昔のアイツはとにかく人に頼ることを知らないやつで、筋金入りの上司信仰者で、しかも気性も感情の起伏も恐ろしいくらいに激しかった。普通の国ならまず近付きにくい存在だった。ま、今じゃただの亡国だが、とにかく昔のあいつは今のあいつから想像もつかねえぐらい、荒々しかった。そんなやつが、だ。
話しているうちに目の前がひどくぼやけてきて、とうとう辺際まで酔いが回ったかと一度目をつぶる。耳鳴りが強く頭 に響いている。片手でこめかみをぐっと押しつぶす。なかなか鳴りやまない。それに耐えながら 、目をつぶったまま静かに続ける。
上司どころか、あろうことか兄弟にも恵まれた。俺も同じように荒かった時期もあった、栄えていた時期もあった、時折、根底が似ているとも言われた。なのに、どうしてだ。どうしてこんなにもあいつだけが恵まれている?
そうして自嘲気味にくくっと笑った。他人に愚痴をこぼすなど自分も落ちぶれた。なんて無様なのだろう。アーサーはそう思う。そう思って、だけれど自分とギルベルトが違ったこと、それでも自分はあの男の兄だったこと、ルートヴィッヒとあの男が違ったことは決して覆らない真実であるのだと思い知った。俺は兄弟にはけして恵まれなかった。震える息を悟られないようにゆるやかに吐き出す。兄貴たちからは嫌われて、弟、つまりアルフレッドからは……お前も話だけは知ってる、だろ?顔を両手で覆いたい衝動に駆られた。己の愚かさを人に晒すことはなんて無様なのだろうかと。そんでまあ、 このざまだ。