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あの夜の 前篇

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そう言ったアーサーの足元が不意によろめいたかとおもうと、そのまま壁に背を擦りつけてずるず ると崩れた。手のうちのジョッキが力なく床に転がる。その底の、泡の残滓が床に染みてやがて木目の色を濃くした。黙って彼の話に耐えていたルートヴィッヒが、膝を突いてアーサーの背中に手をそえる。そうして大丈夫かと問うてくる。お前は優しい子だなあ、世話を焼くルートヴィッヒにそう言って彼の髪を梳こうとしたのに、視界はもうすっかりぼやけてしまってその手はうまく彼の髪に行きつかなかった。行き場を失った手がふらふらとそえられた白い腕の上に落ちる。筋っぽい、冷たい腕。気が付けば、うつつでその腕を引いていた。ぐっと傾いた体がつんのめってアーサーの腹の上に倒れ込む。胸部の方でいたた、と声がする。状況判断をさせる前にすかさず腰に手を 回してやると、ルートヴィッヒの腰の骨がぴくりと震えた。な、なにをする、馬鹿者!アーサーの腕の中にぴったりとおさまった男が抗議の声を漏らす。取り合う気もない。むしろ嫌なら抵抗してみろと言わんばかりに、腕の力を強めてやる。そのつど、ルートヴィッヒの背中が震えた。
やがて、周囲の目がこちらを向きはじめた。口さがなく気味悪がったり、逆にやんやと囃し立てるような声がぼんやりと耳を打つ。それもアーサーにとってはノイズでしかない。鬱陶しい、と思う。しかし苛立ちはどこに向けることもできず、アーサーの中でぼこぼことくすぶったのだった。
ふと、腕の中でうごめくような感触がした。気付けば、ルートヴィッヒが身をよじらせてアーサーから逃れようとしている。本当に勘弁してくれないか…。立ち消えそうな声で彼が言う。面映ゆさに顔を上げられないのか、胸部に預けられた高い鼻柱が持ち上がることはない。酔っ払いの言うことなど何を気にすることがある、己を棚に上げてそう思いながらも渋々と腕の力をゆるめると、冷たく在った彼の体温がゆっくりと身を退いていった。……それを、少し名残り惜しく思ってしまう。
立て、帰るぞ。手が差し出される。おうとつは目立つが指先の稜線の柔らかい、白い手。その手を取って、撫ぜるように指を絡めた。しょっちゅう寄せられている眉間のしわが、いよいよ深くなる。おまえ、さっきから本当に一体何のつもりなんだ。からかいたいのなら、そこまで言ったル ートヴィッヒの目を強く睨み上げてその先を制止する。睨んだ先の表情がどういうものなのか、アーサーにはもうわずか朧げである。からかう?まさか。俺はただお前が可愛げのある「弟」だと思っただけだ。くっと笑う。そうして、胸倉をつかんで引き寄せる。金無垢の睫がまばたきによってはたと揺れる。……お前を欲しいと思うぐらいになあ。そう付け足すと、彼の表情が恐ろしいものを見るようにひどく巡った。それはますます、アーサーを深いところへいざなっている。



あの夜の ( 20100507 / 英×独 )



作品名:あの夜の 前篇 作家名:高橋