蘭兵衛の災難
その日、無界屋は朝から重苦しい雰囲気に包まれていた。
「弱りましたね…」
りんどうの枕元で蘭兵衛が何度目かのため息をついた。大の極楽びいきで、里に出資してもいいと申し出てくれたさる大店のあるじをもてなす大事な宴会が、今夜あるというのに、肝心のりんどうはひどい風邪で床から起き上がれないありさまだった。
「…ごめん、蘭兵衛はん」
苦しそうな声でつぶやくと、りんどうは盛大に咳きこんだ。
「無理しないでください、太夫。熱も高いんですから」
なだめるように微笑むと、蘭兵衛は彼女の布団を直してやった。
「仕方がありませんね。先方にはお断りの使いを出しましょう。あなたがそれでは意味がないでしょうし」
里でいちばんの花魁である極楽太夫を指名した客に、それ以下の格の者を付けるわけにはいかない。
「いや、あたしの代理ならいるわよ」
りんどうが人の悪い笑みを浮かべた。そんな時のりんどうが大抵悪企みをしているのを知っている蘭兵衛はそっと逃げようとしたが、りんどうに目配せされたおよしとおかなに退路をふさがれてしまった。
「そんな…太夫の代理なんて誰がいるんですか」
戸惑う蘭兵衛を、りんどうが指さした。
「蘭兵衛はんなら器量良しだし学もあるし。あたしのいちばんいい着物とかんざし貸してあげるから、蘭兵衛はんやってよ」
「だだだだっ・・・駄目ですよ!!」
あまりの事に目が点になる蘭兵衛を、およしが羽交い締めにする。
「蘭兵衛はん、里にとって大事なお客さんなんですよね。観念したらどうですか」
およしに耳元でささやかれて、蘭兵衛の抵抗が止まる。
「これ、預かりまーす!」
蘭兵衛の前に回ったおかなが、ちょっと背伸びして蘭兵衛の眼鏡を取り上げ、長い前髪をかき上げた。普段は隠されている美貌が現れる。
「およしおかな、蘭兵衛はんのこと頼むよ。里一番のべっぴんさんにしてな」
「あいよ、了解!」
かくして売られる小牛のように、哀れな蘭兵衛はおよしとおかなに連行された。
「これくらい長さがあったら結えるよねえ」
「楽勝楽勝」
「あ、かんざし出してくれる?」
女たちの部屋に連行された蘭兵衛の回りでは、女たちが慌ただしく立ち回っていた。
蘭兵衛の柔らかな黒髪をきれいに結い上げ、美しい細工のかんざしで飾る。
「こんなものかな…よーし、お化粧よろしく」
「はーい」
およしに代わって、化粧が得意なおけいとおとしが蘭兵衛の前に座った。
「着物出してくれた?」
「これでいいですよね」
衣桁に掛けた着物をおさとが示す。黒の地に金糸銀糸で花模様を散らした着物は、りんどうのいちばんのお気にいりだった。
「あ、それは今日の客人のお誂えだから駄目だ」
「蘭兵衛はん、動いちゃだめですよぉ」
後ろから聞こえた蘭兵衛の声に、およしがぽんと手をたたいた。
「じゃ、これじゃなくて藤色のを出してきて。たしか洗い張り終わってたよね」
「はいはい」
すぐに畳紙に包まれた着物が出てきた。
「これに合わせて帯も選んでちょうだい」
「こんなんでいいですか」
およしが指示を出すが早いか、ほうじが帯と帯留めを差し出した。
「うん、これでいいわ」
「およし姐さん、こっち終わりました」
おけいの報告を聞いて、およしが仕上がりを点検する。
「じゃ、あとは着物ね。蘭兵衛はん全部脱いでね」
蘭兵衛はにっこり笑って怖いことを言うおよしをひと睨みすると、羽織の紐に手をかけた。
「それじゃ、いきますか」
いつもの着物を脱いだ蘭兵衛を、三人がかりで着付けていく。
「…ちょっと苦しいんだが」
「駄目ですよ。我慢してください」
帯をきつく締められて、蘭兵衛が悲鳴を上げるが女たちは容赦しない。
「こんなものかしらね。どお、蘭兵衛はん」
およしが姿見を引き寄せて蘭兵衛に見せる。鏡の中にはあでやかな花魁の姿があった。
華やかに咲いた大輪の花を思わせるりんどうの太夫ぶりとは違って、蘭兵衛のそれは凜と咲く一輪の花を思わせる。
「どうと言われてもな」
きれいに紅を引いた形のいい唇から、低い声が洩れる。どうも蘭兵衛の機嫌はかなり悪いらしい。眉間にしわを寄せて鏡のなかの自分を睨みつけている。
「そんな顔すると美人が台無しですよ」
くすくす笑いながら、おかなが蘭兵衛の手を取って立たせる。
「りんどう姐さんに見てもらいましょうね」
「ひとりで歩ける」
照れくさいのか蘭兵衛はおかなの手を振り払うが、長く引いた裾を踏んで転びそうになる。
「最初は無理ですよ。まあ、夜までには慣れてくださいね」
結局、蘭兵衛は渋々おかなに手を引かれて案内された。
「りんどう姐さん、いかがです?」
「うん、上出来上出来」
半身を起こしたりんどうが、蘭兵衛の艶姿を見て目を細めた。
「あとはお愛想笑いができればねえ…ちょっと蘭兵衛はん、笑ってみてくれる?」
一瞬りんどうを睨みつけると、蘭兵衛がふわりと微笑んだ。お愛想とは思えない美しい微笑に女たちがため息を漏らす。
「うん、これなら大丈夫だね。みんな、蘭兵衛はんを頼んだよ」
「はーい!!」
日が落ちて、無界屋の提灯に火がともる。普段なら熱心な常連客たちが訪れる無界屋の玄関だが、今日はひっそりとしている。
「和泉屋さま、ようこそおいでくださいました」
艶やかに着飾った女たちが、たった一組の客を全員で出迎える。今夜の客は江戸で回船問屋を営む和泉屋と、その取り巻き連中だった。
近年西から出てきてあっと言う間に店を大きくした和泉屋は、やり手と評判の高い商人で女癖が少々悪いことを除けばなかなかの上得意だった。
「ほう…見ない顔だが、新入りかい?」
和泉屋が初めて見る花魁に気づいて、首を傾げた。
「はい、お初にお目もじ致します。藤乃と申します、どうぞごひいきに」
しとやかに偽名を名乗った蘭兵衛を、和泉屋がしげしげと見つめる。
「しかし、どこかで会ったような気がするんだが…」
「気っ…気のせいですわ。藤乃は今日がお披露目ですから」
あわてておよしが言葉を継いだ。
「どうぞこちらへ。未熟者ですが精一杯おもてなしさせていただきます」
「あ…ああ」
まだ怪訝そうな顔をしている和泉屋を、蘭兵衛が座敷に案内する。
極楽が伏せっていて座敷に出られないと聞いた当初は明らかに落胆していた和泉屋だったが、蘭兵衛の酌で酒をすすめられるうちにだんだん機嫌がよくなっていった。
「あら」
蘭兵衛の様子を窺ったおかなが苦笑した。
宴が進んですっかり酒の回った和泉屋は、蘭兵衛の肩を抱いてかなりご機嫌だった。
対する蘭兵衛の眉間にかすかにしわが寄っているのは、悪戯な和泉屋の手が身体のあちこちを触っているせいだろう。
「…どうじゃ、わしと今夜」
「和泉屋さまは極楽姐さんの大事なお客様。そんなことをしたら、姐さんに叱られます」
「つれないのお。しかしつれないおなごほど可愛いもんじゃ」
蘭兵衛の言葉など聞こえていないらしい和泉屋が、だらしなく目尻を下げて笑う。
「それに…私には、決まったお方がおりますから」
やんわりと、しかしきっぱり蘭兵衛が釘を刺す。
「ほう・・・いくらもらった? わしならもっと出すぞ」