夜明けの薔薇
思えばあの戦乱の日々、兄がふと窓の外の闇を見つめ、その厳しい瞳を柔らげる瞬間があった。
今なら判る。
あの時兄が眺めていたのは彼女の部屋の明りだった。
* * *
日に日に戦は激化していく。敵も味方も傷つき倒れ死んでゆく。悲嘆と呪いの声が両肩に重くのしかかる。
気付かれないほどではあるが少しずつ、しかし確実に疲弊していく俺にひきかえ、兄の姿勢は終始揺るぎなかった。
「面白え。連合の奴らもなかなか楽しませてくれるじゃねえか。なあヴェスト」
潰れかけた片目のまま餓えた肉食の獣のように笑う兄を見ていると、この人はつくづく戦場の申し子なのだなと思う。
己の身体はズタズタにしてなお、猛る血色の瞳。傷を負えば負うほど激しくギラギラと輝く。
「『軍国』とはまさにあの方のことをいうのでしょうね」
いつだったか日本がそう呟いたことがある。
不吉な喩えをお許しください、と前置きしてから、東洋の武国はその穏やかな瞳を翳らせた。
「味方としては心強いのですが…時折、背筋が寒くなるのです。――まるで死へ向かって嬉々として転がり落ちていっているようだ、と」
***
昔は、違ったのだ。
縦横無尽に戦場を駆け巡る兄の姿は、心底楽しげな子供のようで、恐ろしさの反面見ている者を高揚させた。
いつからだろう――ある日を境に兄は変わった。絶頂期とも言える勝利のさなかに、ふつりと、なにかの目標を失ったように。
それから兄は己の身を捨てるようにして、ドイツ帝国の成立に心血を注ぎはじめたのだ――それはまるで――そう。日本の言うとおりなのかもしれない。
それはまるで、ゆるやかな自殺に似ていた。
* * *
「ヴェスト、どうした?」
飛びかけた思考は低い一声に引き戻された。
「あ…いや…すまない」
兄が壁にもたれて怪訝そうにこちらを見ている。
そう、今は戦略会議の途中だった。
兄の傷は酷い。脇腹と右腿の辺りは軽く砲弾に肉をえぐられ、左腕はおそらく折れている。まるで死の国に片足を突っ込んでいるかのようで、けれど目だけは炯炯と光っていた。
そこから視線をそらすように、今日届けられた書類に意識をむける。あまり馴染みのない文字で綴られたその文書には、自軍にとって確かに心強い内容が書かれてあった。
「見てくれ。戦局を変える契機になるかも知れない」
兄は死神じみた静かさで、するりと手を伸ばして書類を受け取る。次の瞬間、その動きがピタリと止まった。
泥から抜け出たように眠りから醒めたように、ざわり、と気配が変化する。
「…兄さん?」
思わず見つめておそるおそる声をかけると、兄は僅かに頭を振り、何事もなかったかのように顔をあげた。
「いや、なんでもない……続けろ」
「あ、ああ…。差出人はハンガリー。本日付けで正式に、我々枢軸側として、共に戦うことになった」
「……そうか」
兄は一言短く頷いて、それから目を泳がせる。そしてずいぶん長いこと固く強ばり青ざめるばかりだった頬に、かすかに仄赤く、血を昇らせた。
* * *
「あらあらもう貴方たち!いくら前戦といったってこれはないでしょう!」
心底呆れはてた高くまろい声がピシリと響き渡り、居合わせた兵士たちはそろって母親に叱られたように首を竦める。
小柄な身体を無骨な軍服につつんだ女性――ハンガリーは、金茶の髪をなびかせ営舎の前に仁王立ちしていた。
「戦時下であっても、生活の場を心地よく整えることは罪ではないのよ?これだからゲルマンの実用重視主義ときたら!ほら、そっちのテーブルを運んで!!」
熟練の指揮官の如くてきぱきと荒くれ男たちを仕切る。耳に柔らかい声はこの晴れわたる秋の空のように明るいが、何故か百戦錬磨の枢軸の士官たちをも、たじろがせる迫力に満ちていた。
合理性のみ尊ぶあまりどこか殺伐としていた台所がみるみる息をふきかえしていく様子を、俺は魔法でも見るような思いで眺めた。
食堂の窓は開け放たれ、洗い立てのカーテンがゆれる。テーブルの上には、粗末な瓶にではあるが野の花までもが飾られ、殺風景だった男所帯の何もかもがワントーン明るくなったように見えた。
「なんというか、さすがですね…ハンガリーさん」
なにひとつ備品は増えていないのに、ずいぶんと豊かな雰囲気になった兵舎をしみじみと見渡し、感嘆の吐息をもらす黒髪の青年に相対し、彼女はにっこりと笑う。
「長年オーストリアさんに鍛えて頂きましたから。こちらこそ、日本さんのような趣味のいい方がいらして助かりました」
「いえ、私ひとりの力ではどうしようもなかったです。本当にありがとうございます」
風にはためく幾百もの洗濯物の下、意気投合したらしいふたりは晴れ晴れと笑っていた。
***
ある時は厨房で、ある時は青天井の下、巨大な鍋で炊き出しをしながら彼女は古い歌を口ずさむ。
遠くその響きを聞きながら、会議に来ていたフィンランドが唇を綻ばせた。
「いい歌ですね…これは貴方がたの国の?」
「いや、違うな。たぶん彼女の国のものだ」
「どちらにしても不思議ですね。初めて聞くのに、なにか、懐かしい気がします」
見知らぬ響きのその歌声は、彼の言うとおり母の子守歌のように柔らかく胸に染み入って、終わりの見えない戦に厭んだ兵士達の心を慰めるようだった。
突然その歌声に賑やかな楽器の音が入った。
「!?」
やがてさらに能天気な歌声が加わりはじめる。
「あれ…?この声はイタリアくん!確か今国境で交戦中のはずじゃ」
「あいつめ、また逃げてきたな…っ!!」
いつもの俺の怒号と、イタリアの甘ったれた泣き声。ハンガリー達の笑い声。茜色の空の下夕食の匂いと一緒にゆっくりと溶けていく。
***
兄はあれからも、相変わらず戦地から戦地へと飛び回っている。
激しい前線に率先して立ち、誰よりも血を浴び、誰よりも傷を負って帰る。
「でもね」
ある夜、イタリアが内緒話めいた風に声を落として囁いた。
「…前に比べて、陣に戻ってくる回数が増えたんだよ。ご飯だってちゃんと食べるようになった。…良かった」
そしてイタリアは泣くようにくしゃりと笑う。俺はその頭を黙って撫でた。
例えば夜更け、兄が帰る気配がすると、ハンガリーは静かに起きて厨房へ向かう。
「何時だと思ってるのかしら。あの馬鹿いつも戦になると夢中ね」
密やかに優しい声音で文句を言いながら料理を温め直し、兄が食卓につく前に全ての用意を終えると
「あとはお願いねドイツ」と、微笑んでそっと自室へ下がる。
深夜の食堂で、兄はいつもひとり、用意された席については、湯気をたてる食事を無言のまま味わう。
噛み締めるように、ゆっくりと。
その姿は、傷つきながらも、とても穏やかで。
何故だろう。それを見るたび、俺は少し泣きたくなった。