夜明けの薔薇
* * *
戦況は日を追うごとに悪化していく。今までになく酷い戦いになりそうだった。
「ねえドイツ。ここの近くに、薔薇が咲いている場所があるの?」
ある朝、まだ誰も起きてこない早朝の食堂で、ふいに彼女が言った。
「いや、そんなものはなかったはずだが」
そう、と首を傾げた手の中には一輪の赤い薔薇。
「毎朝、部屋の前の窓辺に置いてあるのよ」
昼、会議のついでにふとその話をすると兄は興味なさそうにそっぽを向いた。
「気障なやり口だな。まるであの坊っちゃんじゃねえか」
その耳が、薔薇の花びらよりも赤いことには、気付かない振りをすることにした。
* * *
それからしばらくたった朝、いつもより早めにベランダへ出ると、階下の玄関先に兄と彼女がいた。
偶然鉢合わせてしまったのだろう。兄の手には赤い薔薇。
寒さのせいかは知らないが、二人の頬は赤い。朝靄の中で、まるで出会ったばかりの少年と少女のように、言葉もなく立ちすくんでいる。
口火を切ったのは彼女だった。
「――あなた、花なんて買うのね」
「…たまたまな。帰ってくる途中に、花屋が」
「…綺麗な、赤」
「た、たまたまいつも売れ残ってて、安いんだよ」
兄は今にも逃げ出したそうに、そわそわと落ち着かない。
「今まで勝手にもらってたけど、良かった?」
「――別に。好きに、しろよ…」
目をそらしたまま言って、兄は手にした薔薇を彼女に押し付けた。
その拍子に指と指が触れ、兄の肩が可哀想なぐらいびくりと跳ねる。
ハンガリーが目を伏せ、花びらに口付けるようにして顔を寄せる。
「いい香り」
兄が目を見開き、固まった。
国内を横切る敵機の影は増え続け、不吉な破滅の足音が迫りくる中。その日はひどく静かな朝で。
まるで、永遠を切り取った一枚の絵のように、そのままふたりは黙ってたたずんでいた。
わずかに距離を保ちながら、彼女の揺れる髪を見下ろす兄の目は見たこともないほど苦しげで。
けれど今まで目にしたどんな時よりも幸せそうに見えた。
* * *
* * *
数々の都市を容赦なく壊滅させた爆撃は、首都にまで及ぶようになっていた。
連日ふりつづく執拗なまでの焼夷弾の雨は、この国を残らず焼き尽くすまで止まないのだろう。
官邸の、荒れ果てた会議室。今は無人になってしまった席を見渡す。
「ずいぶん、広くなったものだな」
隣で低く静かに笑みを含んだ声が応える。
「よく言う。お前がそうしむけたんだろ?」
「――ああ」
浮かぶのはともに戦った仲間達の顔。
絶望的な国力の差が日に日に明らかになる中、共倒れになる前にこちらからも彼らを突き放した。苦渋のうちに連合側に組した者もいる。皆、今ごろどうしているのだろう。なんでもいい。泥にまみれてでも、ただ生きて、生き延びて欲しい。
「…さて、兄さん。最後の総力戦だな。ちなみに勝率は」
「ハッキリしてる。九分九厘、敗北だ。しかも後がねえ」
「ふん、明晰さは些かも変わりないようだ。安心したぞ」
笑って見せると、兄は血まみれのままのんきな表情で口を尖らせる。
「おいヴェスト俺様を誰だと思ってる」
「鉄と血で作られた誉れ高き軍国プロシアだろう」
ずばりと答えれば、心底愉快そうに喉をならす音が聞こえた。
「その通り。…そして、俺たちは?」
「ゲルマン数百年の悲願、ドイツ帝国だ。誇りにかけても、このままでは終わらせん」
軍神がニタリと笑う気配がした。
「理想の答えだぜ弟よ。撃ち殺される間際にでも、奴の喉笛食い千切ってやるとするか」
目を合わせ、同時に立ち上がろうとしたその時。
ふいに悪寒が走る。
脳の中に直接沸いてくる不吉なイメージの断片。氷のように冷たい手。狩られた小鳥の羽根のように散る金の髪。彼女が整えた屋敷が、粗末だが居心地の良かった食堂が、いくつもの軍靴に踏み荒らされる。
「――――!!」
同時になにかを感じたらしく青ざめた兄が、低く、『彼女』の名を叫んだ。次の瞬間、息せききって現れた下士官が電報をよみあげる。
《ソ連軍、ブダペストを包囲》
兄が稲妻の速さで銃を手にとった。弾丸のように部屋を飛び出しかけて、――そのまま凍りつき立ち尽くす。
誰よりも戦況を読むことに長けた兄が知らないはずはない。今、ここで彼女を助けにいくことがどんな意味をもつか。
けれど。
俺はなにも言わなかった。
兄もなにも言わない。
兄の瞳が揺れる。
情けも迷いも無いはずの『軍国』の瞳に、おそらく初めて浮かんだ激しい葛藤。
俺は背を向ける。何も見ていない。無言でそう告げた。
――すまない
絞りだすような一言の後、兄は駆け出した。
彼女のもとへ。遠い昔守りきれなかった少女のもとへ。
* * *
世界のどの国もかつて経験したことがないほどの、完膚なき、敗北によって、戦争は終わった。
総攻撃により首都は陥落し、ドイツ国防軍全軍は無条件降伏文書に署名。軍備は徹底して解体された。
死ぬことすら許されないまま、いましめられた両手の手錠が、重い。背中に銃を突き付けられたまま、俺は鉄条網ごしに兄の姿を必死で探す。
鎖を掛けられ極寒の地へひきずられていく行列。
その中に兄はいた。
両足は折られ、服は血で濡れそぼり、まともに意識を保っているのが不思議なほどに、全身ズタズタだった。
けれど、粗末な軍用トラックの荷台で衆目に晒されながら、王者のように胸をはり真っ直ぐ前を見つめている。
表情も判別しない程にボコボコの顔で、かろうじて見えたその口元は強い意志に引き結ばれていた。
「兄さ…」
叫びかけて俺は凍りつく。行列の中にもう一人見知った顔を見つけて。
彼女だった。
青ざめた唇は切れ、愛らしい顔も無惨に形を変えている。美しかった金の髪は半ば焦げ、半分程の短さとなっていた。ぼろぼろの軍服をまとい、裸足のまま、引き立てられる。
何故、彼女までもが。
視界が滲む。みっともない嗚咽が喉の辺りまでこみあげかける。
ふいに彼女が顔を上げた。俺を振り返ると腫れ上がった唇で、元気づけるように笑ってみせた。その顔はあの頃と同じく、いやあの頃よりも遥かに美しい。
そして。
(ああ――)
短く縮れたその髪には、あの日兄が贈っていたものと同じ、赤い薔薇が、ボロボロになりながらも咲いていた。
END